休憩時間に純さんが、タンポポや山菜をつまみ、数人が同じようにした。「買うだけではなくとも、食物は 得られますよ…という意味もあってこうしているのです」とのこと。後にそのスープとあえたのを食べたが、土地とのつ ながりを感じ、また整腸効果もあった。時差ぼけがそれで脱けた。
その後、純さんがアメリカに来て、先住民運動と関わったいきさつを話した。「 70年代の前半にスリランカの仏舎利塔を作っていた時、冗談でアメリカ在住の日本山妙法寺 の僧 Mにアメリカに行きたいと言ったところ、その創始者藤井日達師匠 が、「アメリカ先住民が先住民法によって益々窮地に追いやられないため、アメリカ大陸横 断のロンゲスト・ウォークをやるとのこと。貴女はそれについて行って太鼓を叩き、励ましてやって下さい」 と航空券を渡されたのがきっかけとなった。
1982年、第二次米ソ軍縮会議に向けても、ウォーク。途中で先住民のお ばあさんに会い、弱っている様子だったので指圧をしてやった。シックス・ネイション の長老で先住民のリーダー、デニス・バンクスが、ウンデッド・ニーの教会を占拠して、それまでアメリカ政 府が先住民と契約した約束を果たすよう要求し、連邦政府軍と対決した折の罪を問われ、当時先住民権利に理 解のあったカリフォルニア州知事ブラウンにより、その州内だけは自由を保障されていたの だが、知事が変わり捕まりそうになった時、次の避難所に選んだのが、この東北部のオノンタガ族、しかも彼 が泊まった家は、私が指圧をしたおばあさんの家だったのです。実はデニスが危ないと聞いた時に、私は州議会 前で断食アピールをしたいとデニスに許可を求めに行ったところ「もう遅すぎる。一緒に次の避難場所に行き ましょう」とのことで、デニスの家族とそのおばあさんの家に泊まることとなりました。彼女は実にそれから 3年間の間、自分の寝室をデニスの家族に渡し、自分は居間の長いすに寝たのです。私はそ の下の床に寝ました。その間に私は先住民権利のため、オノンタガとニューヨーク州の首都オルバニーの間をひとりで ウォークし続けました。 1週間歩き、1週間議会の前で断 食、そして車でオノンタガに戻り、またオルバニーに歩く事を繰り返しました。その間に、長野県大鹿村に居 た仏像彫り師がニューヨーク市で先住民権利運動の中心人物の牧師ハンクさんを紹介してくれ、彼が先 住民運動のシンボルを建てようと仏舎利塔について私がオルバニーの議会前で断食中に尋ねました。
その後、純さんがアメリカに来て、
丁度、オーストリアで建てている所だったので、そう伝えると、
なんという偶然とそれを結びつける努力のたまものだろう。
今日、僕は10キロメートルほどで、遅れすぎ、サポート・
出国前に藤本監督の撮ったアメリカの退役軍人の戦場体験と、
そのように、
また、カリフォルニア州ではスリー
アムステルダムの街に夕方到着。かっては、
まだ機能している教会大ホールの床泊まり。ゆったりと休んだ。
(澤村)
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