Friday, April 16, 2010

日本山妙法寺法尼(純さん)の話

 休憩時間に純さんが、タンポポや山菜をつまみ、数人が同じようにした。「買うだけではなくとも、食物は 得られますよ…という意味もあってこうしているのです」とのこと。後にそのスープとあえたのを食べたが、土地とのつ ながりを感じ、また整腸効果もあった。時差ぼけがそれで脱けた。

その後、純さんがアメリカに来て、先住民運動と関わったいきさつを話した。「
70年代の前半にスリランカの仏舎利塔を作っていた時、冗談でアメリカ在住の日本山妙法寺 の僧Mにアメリカに行きたいと言ったところ、その創始者藤井日達師匠 が、「アメリカ先住民が先住民法によって益々窮地に追いやられないため、アメリカ大陸横 断のロンゲスト・ウォークをやるとのこと。貴女はそれについて行って太鼓を叩き、励ましてやって下さい」 と航空券を渡されたのがきっかけとなった

 
1982年、第二次米ソ軍縮会議に向けても、ウォーク。途中で先住民のお ばあさんに会い、弱っている様子だったので指圧をしてやった。シックス・ネイション の長老で先住民のリーダー、デニス・バンクスが、ウンデッド・ニーの教会を占拠して、それまでアメリカ政 府が先住民と契約した約束を果たすよう要求し、連邦政府軍と対決した折の罪を問われ、当時先住民権利に理 解のあったカリフォルニア州知事ブラウンにより、その州内だけは自由を保障されていたの だが、知事が変わり捕まりそうになった時、次の避難所に選んだのが、この東北部のオノンタガ族、しかも彼 が泊まった家は、私が指圧をしたおばあさんの家だったのです。実はデニスが危ないと聞いた時に、私は州議会 前で断食アピールをしたいとデニスに許可を求めに行ったところ「もう遅すぎる。一緒に次の避難場所に行き ましょう」とのことで、デニスの家族とそのおばあさんの家に泊まることとなりました。彼女は実にそれから3年間の間、自分の寝室をデニスの家族に渡し、自分は居間の長いすに寝たのす。私はそ の下の床に寝ました。その間に私は先住民権利のため、オノンタガとニューヨーク州の首都オルバニーの間をひとりで ウォークし続けました。1週間歩き、1週間議会の前で断 食、そして車でオノンタガに戻り、またオルバニーに歩く事を繰り返しました。その間に、長野県大鹿村に居 た仏像彫り師がニューヨーク市で先住民権利運動の中心人物の牧師ハンクさんを紹介してくれ、彼が先 住民運動のシンボルを建てようと仏舎利塔について私がオルバニーの議会前で断食中に尋ねました。

 丁度、オーストリアで建てている所だったので、そう伝えると、彼は現場に飛び、仏舎利塔について理解し、グ ラフトンの彼の土地にそれを建てるよう土地を寄付してくれたのです」。

 なんという偶然とそれを結びつける努力のたまものだろう。


 今日、僕は
10キロメートルほどで、遅れすぎ、サポート・カーに乗った。運転の 女性の息子はアフガニスタンで道路脇の爆弾に頭を負傷したが、まだ現地に居るということ だった。

 出国前に藤本監督の撮ったアメリカの退役軍人の戦場体験と、帰国後の
PTSDやホームレ ス問題の記録映画を8時間、東中野ポレポレ座で観た。アメリカ成人人口の13%、3000以上の退役軍人がいる。戦場の記録映画はベトナム 戦以来観る機会がなくただテレビの爆撃シーンのみだったが、その映画はインタビューと退役軍人 の日常生活を追うだけなのに、かえって生々しさが伝わってきた。

 そのように、軍隊と軍事産業がかなりアメリカを特徴づけているのだが、純さんによると、刑務所産業が軍 事産業並に、重要となっているとのことだ特にニューヨーク州は全米でも刑務所の密度が濃く、
84カ所。犯罪を防ぐためという理由で、市民も税を使うのを許している。囚人の20%は黒人、メキシコ人と先住民も多いとのこと。例えば、道につばをはいただ け、というような、些細なことでも逮捕される理由となり、国選弁護士制度もあるが、効果なく、私選弁護士 を雇う金もない貧しい階級が入所することとなる。

 また、カリフォルニア州ではスリー
Aという法があり、些細な罪、例えば貧しくてピザを3回盗んだりしただけで一生刑務所暮らしをするはめとなり、また民間に刑務所を委託して、砂 漠の真ん中に建てた刑務所で、大きな工場で働くこととなるという。

 アムステルダムの街に夕方到着。かっては、リネン織物で栄えたというが今はさびれ、コロニアル風の塔と ポーチのある大きな家も空き家が目立つ。教会も何カ所もあるが、閉館されたものもある。

 まだ機能している教会大ホールの床泊まり。ゆったりと休んだ。

(澤村)

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