Wednesday, April 28, 2010

Back to the walk

On April 10th, I got on an Amtrak train heading east. I got off at a beautifully restored train station in Utica and rejoined the Walk for a Nuclear Free Future that day.


It has been quite the adventure, rejoining the walk after leaving it in Rochester. The scenery had changed greatly. I was out of Western New York and had entered the Mohawk Valley. Later, we were to walk into the Hudson River valley, which is where we are now. Unlike the Buffalo to Rochester experience, which took me through familiar territory, I had come to a part of the state that I really did not know well.

But there has been one common thread that has linked Western New York with these other parts of the state, which is the rivers. I have always been drawn to water. I remember that,on Saint Patrick's Day, we walked along the shores of the Niagara River to Niagara Falls. We were amazed and intrigued by the enormous volume of water flowing over the falls. Rainbows formed above the falls. It was a stunning sight.

When I rejoined the walk, we were walking along the Mohawk River and the Erie Canal. We crossed and recrossed the river on those bridges that I truly don't like! One of the most wonderful experiences of the walk occurred outside of Fonda, when we stayed at the Mohawk Community with Alice and Tom Porter. We ate traditional corn soup and mush (very yummy) and learned quite a bit about the Mohawk culture.

I was sad to leave the Mohawk Community, where I felt at peace. We were surrounded by the beautiful hills and waters of Central New York. I could see horses and cows and I could walk through the woods to a cold stream. It was good.

I have to admit that one of the reasons that I chose to rejoin the walk after having been away for two and a half weeks was to see the Hudson River. I had seen the Hudson many times through the windows of a train and I very much wanted to see it within touching distance, much as I had the Mississippi River when I participated in the Witness Against War walk in 2008.

The river was beautiful but I have learned that it is full of sorrow, much as the Niagara River is full of sorrow. Radioactive waste has been found in the Niagara River, byproducts of the Manhattan Project of the 1940s. This radioactive waste has been found all over Western New York: in Lewiston, West Valley, Tonawanda. It has resulted in birth defects and all sorts of cancers. In the Hudson River, we were told, there is radioactive waste resulting from the Indian Point Nuclear Power Plant.

We walked to the western shore of the Hudson River and could see the Indian Point Nuclear Power Plant on the far shore. We all dropped to our knees, praying and crying. We cried for the river and for the children who would inherit this wounded earth. We cried for the victims of depleted uranium. Tears kept flowing for the damage that uranium mining does to the earth. Our tears fell for the harm that the heated water does to the fragile ecosystem of the Hudson River.

Water is life. That is probably why I am so attracted to it.

The walk is about to end. I will write more when I come home.

Bye bye for now.
alice

Monday, April 19, 2010

Niagara Falls

Sunday, April 18, 2010

Albany/フリースクール

 6時起床。祈り。今日は土地人が増えてウォーカーは26人。街郊外の海軍原子力研究所へ行く。ここで、原子 力潜水艦の原子炉が研究され、訓練もされる。海軍はもう一つ、ハワイに同様の施設を持ち、計27千人が双方で働いているという。その鉄柵に祈り鶴を下げている と、マッチな私服、そしてサングラスに黒いユニホームの警備員が4名駆けつけた。全員軽機関銃と腰に重いバッグつき。ウォークの現場コーディネイター、73才の白人Jが対応する。この研究所には、200名ほどの優秀な科学者が勤務するというが、物々しい警備の外には、広大な敷 地にビルが点在しているだけだ。

 
20メートルほどの川に沿った道を歩く。遅れ気味の僕を、やはり遅れ 気味の太ったNが、大きなNuclear Free Futureの旗を肩に下げ、ずっとつきそってくれる。ただ二人で歩いている内に道を間 違ったのではないか、と不安となり、ケイタイを試したら、初めてアメリカで通話できた10キロメートルほど先で、旗をかかげて待っている者に出逢った。それまでは林 の中の小城みたいな住宅ばかりで、日曜なのに人の影ひとつ見なかった。「どんな人が住人でいるのか」と同 行者に聞くと、「Politician」と答えた。彼らは一行の太鼓の音を聞き、窓の内側より旗の進 むのを見ているのだろうか。「ここらの人たちは、市内に住んで金貯めて、郊外にでかい家 を買い、その内子供がさびしいとか言うのでまた市内に移るのさ」と付加えた。

 ウォーカーの止まっていたのは、センスの良い中位のサイズの民家だった太鼓の音を聞いた当家の女性 が、かつて純さんと会い、その後ピースパゴタにも行ったことのある人で、ピンときて家から出ると純さんに 再会。お茶に招いてくれたのだ。昨日コンピューターを借りた民家に次いで、一般家庭にま た入った。広く家具調度品は立派だ。
 今朝教会を出る時に、入口に
20人ほどの貧しい人たちが、日曜朝のフリーミールを待っていた。黒 人と白人の老人が多かったが、皆どろ臭かったり、悲しそうだったりした。その差がどこに でもある。
 そして、今日の行進に先住民はまったく消えている。そう言えば、昨夜彼らが「明日は、西の門から東の門に入る」と 言っていた。つまり、首都オルバニー近くは、白人地帯と見なされているのだろうか。モザイク状に、都市内 でも各人種が別れているように、地域でもそのように互いのテリトリーを意識しているのかも知れない。 まだ入国して
8日目だ。判らないことばかりだ。小さな出来事を結びつけて自分な りのアメリカ像を作るしかない。だから、意識的に質問もしておらず、相手が自然に言った ことを元として、この記事も書いている。

 どこの市内も、郊外からの金持ちが戻る現象が起こっているらしく、住宅からして高級マンションか高級住 宅、もう一方は低所得者アパートか、古い互いの壁をくっつけた家。と、見事に分かれている。こんな近くで 互いの差を見ていたら、互いにつらいものがあるだろう。そのギャップを歩いて行く正 面に議事堂らしき両肩のそびえるビルの建つ道の歩道を延々と行く内に、僕の歩みは限界にきた。サポート・カー がそこで待っていた。今日は
2.3キロは歩行距離を延ばしている。たぶん12キロ位か。ずっと曇りっぱなしだったが、雨も降らず、風も弱かった。日曜日 らしく市内の人もゆったりとして、あいさつする若者も何人かいた。

 ニューヨーク州の首都
Albanyそこのフリースクールに泊まるが、その手前で車に乗り込んだ。落 伍組のもう一人は林の中の道を延々と二人だけで歩いた時の、太ったNだった。彼は体重がハンディとなっている。12年間ほど海兵隊と空軍に入隊していた元軍人の40才。だが、そういう過去を言った後、「それ以上は聞かないで」とクギを刺た。 運転するのは一昨日と同じ、息子がアフガニスタンで負傷したという母親。車に入ったとたんに、小雨が降っ てきた。

フリースクールは黒人が目立つ古い地区だった。それが堂々とした州会議場や、 モダンなビジネス・ビルのすぐ裏にあった。Amsterdamにもある軒を並べた良い造りの家だ。ウォーカーのひとりがそこ に住んでいた。招かれて中に入ると階段は急だけど、3階にある彼の家 は、ホッとさせられる質素ながら味ある部屋が3つほど。家族で住んでいるようだが、物が本当に少ない。

 フリースクールはより大きな部屋が
12階にあり天井も高 かった10数人の子供たちとその親、そして平和活動をしている素朴な男女が 集まったから、サークルは大きくなった。セネカ族から始まる各宗派の祈り、そしてス ピーカー。堂々とした体格のカユガ族のアレンさんが最初。
 「ウェスト・ヴァリーのセネカ・テリトリーに核廃棄物が捨てられた。水や大地が汚染されたことで健康を 損なう者が多くなり、流産、奇形児の問題も重なり、
1990年 代に3カ所の核廃棄物所の1カ所が除去されたが、未だ、2所ある。かつてシックス・ネイションに来たヨー ロッパ人は天国を見つけたと喜び入植したが、我々にとっては苦難の始まりとなった。私も汚染された ことを知らずに子供の頃、その場所で遊んだりした。ここの核廃棄物は原を作った時のものだ。国連に核廃 絶を訴えたい」。

 ハイドロンさん。「第
2次大戦中に悲劇の起こった場で断食し、祈ることをしてきました。1987年に、2人の僧がストックホルムからアテネに向かって核凍結を訴えて歩 いているのを見ました。私も1日だけ歩いたのが最初。1980年代、西ドイツに配置された核弾頭は1.400発。その1個だけでも広島原爆の13倍の威力があった。今は240発だが我々の兵士が使うよう訓練を受けている。53日の国連NPT会議で、全 ての核廃絶を訴えよう」。

 日本人しげるさん。「
194586日広島原爆、89日長崎原 爆。815日終戦。私の父 はソ連軍によってシベリアに2年間抑留されました。そこで多くが死にました。母は戦 時中の状態を男一人に対してトラック一杯の女性位の率で、男が少なかったと言いました。父は77才で亡くなる2週間前に舞鶴に行きたいと言いましたが、実現できませんでし た。私はそのとを、今だに悔やんでいます。大陸から引き揚げた日本人は舞鶴に上陸した のです。日本は平和憲法を持ったことにより、私たちは戦争を体験せずにみました。それは戦争で自分たち だけではなく、アジアの多くの人を犠牲にして得た憲法です。私がまずアジアで平和行進に参加のは、この前 の戦争のおわびをしたかったからです。今回は9.11以来のアメ リカで平和を訴えるために参加しました。

 最後にフリースクール責任者クリス。「
1982年に国連軍縮会議のあった時には全国全世界から100万人が集まり、デモをしました。その大群衆の中で偶然ですが、黄色の服を着 て太鼓を叩いている宗団に会いました。車椅子の老人を先頭として。その方が創始者の藤井上人でした。そ の後また偶然にここオルバニーでその音を耳にして会ったのが、純さんです。その時彼女は、カリフォルニアを追われた デニス・バンクスがオノンダカ族のテリトリーに逃げ、ニューヨーク州知に州内を自由に動けるよう請願し ていました。純さんがそこから州都オルバニーまで一週間歩き、州知事庁舎前で1週間断食をすることを、1年間繰り返してい た時のことです。彼女はこのフリースクール前に住むクエーカー教徒の女性の家に泊まっていたので親しくな り、グラフトンに法塔を建てる時にはフリースクールのスタッフが最初に駆けつけ、泥の道を3トンの岩を20人がかりで転がし上げるようなこともしました。52日に向けて、オルバニーからも何台もの大型バスを仕立てて国連に 向かいます」。

 ここはフリースクールだから子供が多く、広い空間で自由に学び遊んでいる。多くの人を泊めることに慣れ ているようだ。男と女別部屋となって、厚いマットが一面に広げられた。都市の中心だというのに、伝統的な 造りの家だけのこの通りは本当に静かである。

 世界中の国の軍事費の合計した額の半分を一国で使っている国アメリカに、
100兆円をイラク 戦に、しかもその内の数兆円はわいろやら無駄に使い、現大統領も300億円をアフガニスタンに使うと宣言した国アメリカに、これだけ色々な平和運 動をしている人がいる、という事実に、心が静まってくる。
 そして、このフリースクールの経済基盤もユニークだ。この黒人街の通りで半壊した建物を買い、それを皆 の手で修理してアパートに改造、その家賃でもってフリースクールの運営費をまかない、
40年間続いてきたというアメリカで一番古いフリースクールコミューンの自信がそう安心させるのだろ う。教師は既に2代目3代目だ。ス ピーチをしたクリスさんは既にリタイアしているが、かつて日本の宝島出版社より「学校へ行きたくない子供たちの学 校」という本を出版し一時はかなりの日本人がここを見学に来たとのこと。彼らはグラフトンの仏 舎利塔建設にも、フリースクールから紹介され、訳判らなかったようだが奉仕をしたという。

 このフリースクールの生徒は現在約
50人、毎日幾つものカリキュラムがあり、生徒は自由に選べる。3才の保育園児から12才まで。運営については、生徒と教師が同じテーブルを囲んで話 し合い、また生徒だけで話し合うこともあり、その時は教師は後ろに座り、ただ聞いている だけだという。学費は少額、より貧しい者は奨学生として無料。
 夕飯。日常的にこのような団体を収容しているらし く、食事にしても見事に菜食バイキング料理が出てくる。暖房も丁度良い温度。床の小さな穴から温 気が吹き上げる方式だ。マットの上で楽々と寝た。

(澤村)

Saturday, April 17, 2010

行進団の人々

 教会の外に出た。肌寒い。ここは札幌より少し北に ある。あたりのアスファルトはまだずぶ濡れだった。夜、かなり降っている音がしていたのを思い出 した。例のごとく6時に祈りの集会。そして、JFK空港がアイスランド沖の火山噴火により閉鎖のニュース。新人が自己紹介する。中 にはフロリダから来た親子がいる。息子の一人がかつて参加していて、影響されたのだそうだ。まったく ウォークに参加している人は各々色々な関わりでやって来ている。5人ほどの先住民は、一昨年の先住民権利ウォークに参加して目覚め、今回の核をテーマとし たウォークにも参加した。シックス・ネーションの西端セネ族の土地、バッファローの南48キロに核廃棄物処理場があり、地域の住民やそこで働く労働者に深刻な被害をもたらしている、と いう事実をアピールするためだ。
 多数派は白人。コーディネイターの
Jさんは73才。い つもケイタイで問い合わせを受け付け、また、ウォークのための宿舎、サポート・カーの手配等を純さんに協 力してやっている。勿論、毎日歩き通してもいる。元軍人、元警察官、ニューヨーク州の人。その日、通りか かった街の人が、一日だけ参加する例もある。フランス人3名は若 く、ヨーロッパ、南アフリカ、オーストラリアのウォークにも参加している。日本の若い女性2が、こまめに料理をやり続けている。とても健康的な米、玄米に菜食が主だが、そ の街のボランティアが持ち込むパンやパスタやバター、チーズ等を組み合わせた豪勢な食事が毎回出てくる。昼 食はサンドイッチを屋外で。朝夕はバイキング・スタイル。勿論マイカップ・マイディッシュ・マイスプーン& フォーク。
 
Amsterdamの街を出るまで宿泊した教会の牧師が交通整理をしながら先導し た。道脇の住民が数人、これは何のウォークですか?と尋ねた。車道を歩いていてもクラクショ ンを鳴らしたり、手を振ったりして励ます運転手がいる。純さんによると、30年前は「ブラブラせずに仕事をしろ!」と、怒鳴られることも多かったという。道に身をさらすこと で、時代の変化を感じとれるのだろう。毎年ウォークを続けている70才代前半の年配者たちには、ゆるぎない存在がある。顔の厚い皮、地に降ろした身体。常 に落ち着いている。7~8キロメートル歩くと、小雨が降り始めた。風も強くなり、急激に冷え込んだ。この ウォークを37日にバッファロー で始めた頃には、雪も降ったという。

 今日僕は、
52日に民間団体が ニューヨークで開催するワークショップの申し込みを、苦手なコンピューターを通してやらなければならな い。現地のサポーターの車で、彼の自宅にて、彼に手伝って貰い申し込みをした。それから、土曜でも開い ているモールの郵便局で、原稿をいつもタイプ打ちして、ウェブに載せてくれる友人に送る。それがぶ厚かっ たので小包扱いとなり、用紙に内容等を書き込むこととなった。9.11以来、あらゆる面で規制が厳しくなったということだ。郵便局にパスポート取 得できる、とある。それは以前カナダに免許証だけで行けたのが、9.11以来不可能と なったからだ。モールを出た所で、ふと同行の彼がつぶやいた「昨日ここで少女が空気銃で撃たれて、首に ケガしたということだ。犯人はまだ捕まっていない」。見れば、SECURITYと書かれた車が止まっている。
 ウォーク一行は既に23キロメートル歩いてSchenectadyの街の教会に到着していた。この教会も広くまた中で迷った。夕 食前に街の平和運動家が10人余集まり、共に祈りを捧げた。アフリカのザンビアで唯一布教 をしている75才の森下上人が、平安時代には仏教が盛んで、刑務所に蜘蛛の巣が 張るほど犯罪が起こらず、死刑になった者は一人も居なかったとの話をした。ここの平 和運動家は、郊外にある原子力研究所に反対しているグループだという。皆知的なのは、州都Albanyに近いからか。今日の出発点のAmsterdamのさびれ様とは違って、家も新しく立派なのが多い。

 夕食は彼らも持ち込んだ食料も加わり、何を選んだら良いのか迷うほどだった。手作りのケーキまで!談笑 していると、ベトナム戦従軍した年配者がいた。当時は徴兵制でアメリカ人は自国を守るために戦うことが誇りとなて いるから、ほぼ皆が喜んで従軍したが、現場では酒を飲んだりする生活が続いたという。後になって、ベトナ ム戦の拡大したきっかけとなったトンキン湾事件(ベトナムの魚雷艇がアメリカ軍艦を攻撃した)は、作られた情報あ るのが判ったのだ。そして、退役してもその後の保障は余りにも少ないとのことだ。それに反して警察への保 障は充実しているという。

 今日はウォーク参加以来、初めてのシャワーをとった。近くの
YMCAまで車に乗せて貰うと、そこも迷う位大きなビルで、シャワーは20人ほどが一度に浴びれるように、一本の柱に4個ずつ 水口のついているタイプだった。教会の一部屋の床に泊まる。寝る前に数人がお灸をすえて、身体を整えた。今回の ウォークは計1.120キロメートル。既に半分以上を歩いた人たちの中には、足を引き ずっている人も何人かいる。

(澤村)

Friday, April 16, 2010

日本山妙法寺法尼(純さん)の話

 休憩時間に純さんが、タンポポや山菜をつまみ、数人が同じようにした。「買うだけではなくとも、食物は 得られますよ…という意味もあってこうしているのです」とのこと。後にそのスープとあえたのを食べたが、土地とのつ ながりを感じ、また整腸効果もあった。時差ぼけがそれで脱けた。

その後、純さんがアメリカに来て、先住民運動と関わったいきさつを話した。「
70年代の前半にスリランカの仏舎利塔を作っていた時、冗談でアメリカ在住の日本山妙法寺 の僧Mにアメリカに行きたいと言ったところ、その創始者藤井日達師匠 が、「アメリカ先住民が先住民法によって益々窮地に追いやられないため、アメリカ大陸横 断のロンゲスト・ウォークをやるとのこと。貴女はそれについて行って太鼓を叩き、励ましてやって下さい」 と航空券を渡されたのがきっかけとなった

 
1982年、第二次米ソ軍縮会議に向けても、ウォーク。途中で先住民のお ばあさんに会い、弱っている様子だったので指圧をしてやった。シックス・ネイション の長老で先住民のリーダー、デニス・バンクスが、ウンデッド・ニーの教会を占拠して、それまでアメリカ政 府が先住民と契約した約束を果たすよう要求し、連邦政府軍と対決した折の罪を問われ、当時先住民権利に理 解のあったカリフォルニア州知事ブラウンにより、その州内だけは自由を保障されていたの だが、知事が変わり捕まりそうになった時、次の避難所に選んだのが、この東北部のオノンタガ族、しかも彼 が泊まった家は、私が指圧をしたおばあさんの家だったのです。実はデニスが危ないと聞いた時に、私は州議会 前で断食アピールをしたいとデニスに許可を求めに行ったところ「もう遅すぎる。一緒に次の避難場所に行き ましょう」とのことで、デニスの家族とそのおばあさんの家に泊まることとなりました。彼女は実にそれから3年間の間、自分の寝室をデニスの家族に渡し、自分は居間の長いすに寝たのす。私はそ の下の床に寝ました。その間に私は先住民権利のため、オノンタガとニューヨーク州の首都オルバニーの間をひとりで ウォークし続けました。1週間歩き、1週間議会の前で断 食、そして車でオノンタガに戻り、またオルバニーに歩く事を繰り返しました。その間に、長野県大鹿村に居 た仏像彫り師がニューヨーク市で先住民権利運動の中心人物の牧師ハンクさんを紹介してくれ、彼が先 住民運動のシンボルを建てようと仏舎利塔について私がオルバニーの議会前で断食中に尋ねました。

 丁度、オーストリアで建てている所だったので、そう伝えると、彼は現場に飛び、仏舎利塔について理解し、グ ラフトンの彼の土地にそれを建てるよう土地を寄付してくれたのです」。

 なんという偶然とそれを結びつける努力のたまものだろう。


 今日、僕は
10キロメートルほどで、遅れすぎ、サポート・カーに乗った。運転の 女性の息子はアフガニスタンで道路脇の爆弾に頭を負傷したが、まだ現地に居るということ だった。

 出国前に藤本監督の撮ったアメリカの退役軍人の戦場体験と、帰国後の
PTSDやホームレ ス問題の記録映画を8時間、東中野ポレポレ座で観た。アメリカ成人人口の13%、3000以上の退役軍人がいる。戦場の記録映画はベトナム 戦以来観る機会がなくただテレビの爆撃シーンのみだったが、その映画はインタビューと退役軍人 の日常生活を追うだけなのに、かえって生々しさが伝わってきた。

 そのように、軍隊と軍事産業がかなりアメリカを特徴づけているのだが、純さんによると、刑務所産業が軍 事産業並に、重要となっているとのことだ特にニューヨーク州は全米でも刑務所の密度が濃く、
84カ所。犯罪を防ぐためという理由で、市民も税を使うのを許している。囚人の20%は黒人、メキシコ人と先住民も多いとのこと。例えば、道につばをはいただ け、というような、些細なことでも逮捕される理由となり、国選弁護士制度もあるが、効果なく、私選弁護士 を雇う金もない貧しい階級が入所することとなる。

 また、カリフォルニア州ではスリー
Aという法があり、些細な罪、例えば貧しくてピザを3回盗んだりしただけで一生刑務所暮らしをするはめとなり、また民間に刑務所を委託して、砂 漠の真ん中に建てた刑務所で、大きな工場で働くこととなるという。

 アムステルダムの街に夕方到着。かっては、リネン織物で栄えたというが今はさびれ、コロニアル風の塔と ポーチのある大きな家も空き家が目立つ。教会も何カ所もあるが、閉館されたものもある。

 まだ機能している教会大ホールの床泊まり。ゆったりと休んだ。

(澤村)

AD(アフリカ系アメリカ人)の話

 そして平和行進は、今日例外的に、朝遅く出発した。次の宿泊地アムステルダム市の教会が午後5時からしか開かないので、余裕を持ってゆっくりと歩いた。僕もついて行けるので、有難 いスピード。それでも徐々に遅れても、バッファローの通信社に勤めていた女性がしんがりの旗を持ちつきそってくれ る。本日の予定は短く、16キロほど。途中小雨ながら、ほとんどの人は雨具も使わず歩き続 ける。

 途中、昨日
Fondaまで車で送ってくれた中年の黒人と話しながら歩いた。黒人は平和 運動に参加しないのに、どうして貴方は参加したのですか?と尋ねると

「それは、奴隷制度があったという事実にまだ国が正面から向き合っていなからだ。この国の白と黒という 分離は、ほとんど永久に解決できないように思える。オバマは奴隷の子孫ではなく、アフリカ人と白人の混血 だ。私のもアフリカ人だが、我々は互いに大きく異なっている」と答えた。

(澤村)

トム・ポーター(モホーク族)の話

 早朝起床。外に出たら曇り空に冷たい風。6時祈り。朝食後、20人のウォーカー皆でこのモホーク族コミュニティ責任者トムさん を囲み、話を聞く。この土地は彼のひいおばあさんの物であった。彼らが強制的に居留地 に移住させられた時、我々は必ず戻る、と言った通りに戻った。以下、トムの話。

「我々は西欧人の食生活を取り入れて以来、それが好きになりましたが、糖尿病にかかる者が多くなり、私自 身もそうですし、妻も今、視力の低下に悩むまでとなりました。しかし、伝統的なトウモロコシをベースとした食事に転 換したところ、かなり血糖値が低くなり、妻も手術を受けられるレベルとりました。

 私が子供の頃は、居留区には電気などの文明は届いておらず、夜寝る時はマキを節約するために、私はおば あさんに寄り添って暖をとっていました。
4才となった時のことです。朝目覚めた時に陽が窓から入り、おば あさんが「これが、創造主の指であり、腕なんだよ。創造主はこうして私たちや納屋の牛 や、木や草を、子供を愛するように包み込むんだよ。そして母なる大地をお前はただ<ニヤンウェ>ありが とうと言うのです。私達を生かしてくれる偉大な慈悲と愛に。我々は教会や王様や女王は要らない、と。

 先住民は、この世界一豊かな国で、真実と幻想を見分けられなくなってしまいました。老いた者は疲れ果 て、若者はルーツに戻ることを忘れてしまいました。しかし、全ての教えの元は、殺すなということであり、我々は
100年、200年かかろうと本来の教えに戻ろうとしています。今朝貴方がたが 祈っている姿に、私はただ泣いたり見せつけたりするより大切なものを感じました。ミュ ニティの女性達は、昨夜、偉大なスピリットが降りてきたと言い、子供たちも明るい目覚めをしました。

 そして貴方がたの中に、長年無実の罪で刑務所に入れられている先住民
Russel Meansが、彼の自伝 White Men Fear to Treadの中で数ページ渡って書いた日本人僧 侶、森下さんがこの中に居ることを嬉しく思います。彼はRussel Meansがブラックヒル国立公園の中に、キリスト教教会はそのまわりに2エーカーの土地を 与えられるのだから、先住民の教会であるティピとスウェットロッジのまわりにも2エーカー与えられるべきだと、そこを占拠した時、森下さんは彼らが当時持っていた一番良い住居、ト レーラーを与えられて住んだのです。

 ある朝、
Russel Meansは、いつものように夜警の当番を終え て、あたりを散歩していました。そしてキッチンで、森下さんが床にこぼれた米と豆を拾っているのを見まし た。それは、彼がその日生きるのに必要最小限の食料でした。その姿を数日見続け た後、彼は仲間に「この食料は皆創造主によって与えられたものだから、敬い大切にしようではないか」と 言ったのです。森下さんは毎朝近くの山頂に登り、太鼓を叩いて祈っていました。その音と彼の姿を見て、先 住民たちもその時に祈るようにもなったのです。

 今私は、敵のために働いています。我々のリーダーがそうするように言ったからです。刑務所でキリスト教 も、ユダヤ教も、安息日に祈りをささげられますが、先住民は宗教を持つ事を禁止されていました。しかし、
2000年に我々は権利を得、私は刑務所で先住民の祈りと、伝統的な食事を伝えてい ます。

 また、毎年
6月の最後の週に、ここで伝統的な儀式や伝統的な物語を伝える祭り をします。また、夏には2週間に渡って、モホーク語の学習会を開きます。シックス・ネイ ション(六部族連合)の中でも、モホーク族は最も部族語を日常的にも使っており、3000人が言葉を話せます。シックス・ネイションの他の部族、オノンタガやセネカ の言葉も似ている方言ですので、彼らもこの学習会に参加すると話せるようになります。

 今、私達はこのあたりに多く住む、現代文明を拒否して農業に従事するアーメッシュの人々のようになろう としています。彼らは常に忙しくしているので、精神が病む余裕もありません。ここにも来て色々と教えてく れます」。

(澤村)

Thursday, April 15, 2010

行進団合流/Fondaモホーク・コミュニティ

 Fondaのモ ホーク・コミュニティで一行はRestDayだという。朝からスカッと晴れた丘を歩いた。固いひ とかかえほどの石があちこちにある。純さんによると、だからここは農地として開拓されなかったと いう。そして所々に石をサークル状に積み上げているのは、かってこの地に住んでいたモヒカン族のものでは ないか、と言う。

 午後
2時頃、Fondaへと平和 運動には関わらない黒人としては例外ADの車で行く。途中Albanyニューヨーク州の州都を抜ける。古い英国風のビルと現代風のビルが混在す る人口5万人程のこじんまりとした都市はハドソン川沿いにあり、彼が街と 川の間にある川岸の小公園を案内してくれた。街から歩いて川岸に来るのは、ハイウェ イの上にかかっている歩道橋を登り降りするという。まず車を優先してアメリカの街は作られる、つまり遠距 離移動機能を重視するのは、オーストラリアもそうだった。移民社会とはそういうものなのかも知れない。

 この街で働く人の中には南部から移住した例も多いという。重厚な作りの州庁舎の脇の緑地に団地群があり、そ こは低所得者が多く犯罪率も高いという。立法府と犯罪地帯、両極のコントラストが並んでいる。

 鉄道に沿った
3車線道路の脇に、モホークのコミュニティ・ハウスがあった。中に 入ると迷うように大きい。カナダから来た旧友と再会。別れていた間のよもやま話に花が咲 いた。彼は定年退職後にミャンマーの寺で2年間修行。出家して、今は四国で瞑想センターを開いた。

 モホークの女性達とインディアンのとうもろこし粉の料理と、ウォーカーが歩いている間につまんだ山菜の夕食。よ うやくウォーカーと再会、夕食後サークルで自己紹介をした後に、重厚な造りの
2階部屋の床にホッとしたらすぐ眠った。

(澤村)

Wednesday, April 14, 2010

マンハッタンを離れる・Graftonへ

 昨夜は斜め上のベッドのアメリカ人の若者がケイタ イの音高く鳴らし、一寸注意したがお構いなしで、早朝にもまたけたたましいのに起こされ、寝起き が悪い。そこで散歩に出た。裏の低所得者用団地の広い中庭に大きな鉄のンチがあった。そこで朝陽を浴び る。緑が息づいている。

 団地の出口から出勤する若い黒人の男女が急ぎ足で出ては去る。杖をついた黒人の老人が向こうのベンチに座りゆっく りと、紙コップのコーヒーを飲み始めた。そこで僕もやはり紙コップを手にした通行人にコーヒー店を聞く「裏 の大通り」と男が指さす。もう一人が「角の向こう側」と付け加える。

 昨日と同じに、行き先はあっという間に判る。

 アラブ系らしい雑貨屋でコーヒーの大を買い、ベンチに戻りゆっくりと飲み干したら、出発時間の午前
9時に近くなった。ニューヨークでは何事もスムースに進行するためか、時間のたつのがす ごく早い。

 ホステルをチェックアウトするのに時間がかかった。
650名収容できる規模だから、ラッシュアワーには列に並 ばなければならない。

 ニューヨーク州の州都オルバニーに行くバスは、マンハッタン島の市街地ペンシルヴァニア駅前から出る。黒 めがねの黒人女性の運転するバスも混んでいた。そして老人と身障者、特に車椅子の黒人などの乗り降りに時間がかかっ た。

 客どうしの口げんかも起こった。そのひとつひとつをこの黒人女性運転手はテキパキとさばき、命令する。 「私はここで皆にサービスするためにいる」。ケンカのトラブルが発生した時に彼女の言った言葉が印象に残った

 ダウンタウン中心街で下車。活気ある人の流れの中で声を張り上げていたキリスト教の宣教師らしい
30がらみの男に、メガバスのありかを聞く。また時が素早く経って、もう集合時 間の11時に近い。宣教師に渡されたキリスト教のビラを片手に彼の指さし た方向へくと、角から摩天楼エンパイアーステートビルが見えた。あたりのビルもそ そり立っているから、僕が少年時代に見たように抜きん出た存在ではない。

 
2階建てのメガバスはほとんどの長距離列車の発車するペンシルヴァニア駅の脇 に停車中だった。列となった客はまもなく乗車した。そしてあっという間に発車してあっという間に緑広がる郊外に出た。 ニューヨークの空気が良いのは、片側は海、片側は広大な林があるからだと納得できた。3車線道路脇にはレストラン風の家が主だ。そのいずれもが星条旗をひるがえしている。

 道はハドソン渓谷に沿って北上。なだらかな丘が続く。樹には花がチラホラする。車の流れは絶え間なく、昨 日の日記を書いていたら、バスは停まり、あっけなく終点の
Albany到着。待っていたシャイアン族のLのニッサン乗用車に移る。彼は幼い頃母と共にサンフランシスコ に移住。母はインディアンであることを隠し通していたが、一昨年のグレーテスト・ウォーク に参加してから今回のウォークの中心、日本山妙法寺の尼さん、純さんと知り合い、全米数カ所の寺を行き来、最 近純さんの寺のあるGraftonに近いAlbanyに移住 したとのこと。

 その寺は林に囲まれた丘にあった。
10数年かけてボランティアが建てた家が2軒。そして白い仏舎利塔。留守番の日本人青年は、アメリカと日本でスライドショーを開いていると いうHさん。アーティストらしいデリケートで温かいもてなしをしてくれ た。2時間経つと純さんが来た。彼女の話によると、この土地 はモヒカン族のもので、彼らは離れた居留地に移住させられたが、祖先の骨がAlbanyの博物館にあったのを戻すよう交渉した。その願いが受け入れられ、伝統に沿っ た埋葬をこの寺の土地にするため、純さんに尋ねたところ「勿論ここは貴方がたの土地ですから」と、快く応 じ、そのセレモニーをした。丁度その時、アメリカ先住民のリーダーも訪れ、またセレモニーの最中偶然カト リックの尼さんも来て、インターフェースのセレモニーになったという。そのようにこの土地 では、不思議な出逢いが次々と起こっているという。

 その日も、近所の人が料理したパスタを届けてくれ、ニューヨーク在住の日本人カメラマンの料理したチキンカレーで 豊かな食事。ニューヨークでは自分で作ったサンドイッチとファーストフードだけだったからとても有難かっ た。そしてここの名物。鉄分を含んだ井戸水の五右衛門風呂!夜の星は真っ暗な森の上に輝いていた。北斗七 星がここでは真上にある。

(澤村)

ニューヨーク

 起きても時差ぼけに身体は動かない。でも今日は休 日。ゆっくり自立整体のエクササイズをする。明日午前11時、ウォー ク参加のためにニューヨーク在のコーディネイターが手配してくれたバスに乗る、予定はそれだけだ。ぐずぐ ずとうまいコーヒーにパンの朝飯、タバコ、そしてピチピチとしたヨーロッパからの若者が多いホステルだ歩 き出したら、ハドソン川に突き当たった。川沿いの公園は子連れの散歩者、緑のベルト、リス。恵まれた環境 だ。しかし何やら冷ややかな表情が多い。それから市内でも…とブロードウェイに向かって歩き始めた。都市 の路上にはさびし気な表情が多い。

 ニューヨークの栄光の日々は終わった。前市長ジュリアーノが犯罪を少なくしたというが、
9.11以来、景気は落ち、また新市長のお陰で少し上向きになったと、同室のアメリ カ人中年は言っていた。だが、すさまじい管理社会と家賃の高騰で、アーティストは近くの州に拡散し、文化 の味は失われたから彼は南アフリカに移住したそうだ。でも、そこは名だたる犯罪社会。ニューヨークに居た時にもブ ロンクスなどには決して近寄らなかったが、南アフリカでも同様に、ゲットーは避けて暮らしているという。彼 にもさ迷えるアメリカ人の運命的な憂愁が漂っている。

 空は灰色、相変わらず今日も肌寒い。ブロードウェイに行く道の途中には閉店中のものも見かける。東京の 中心街もそうだが、住人互いのコンタクトなく歩く人の表情にウンザリして途中で左折、
Central Parkに入る。歩行者用の舗装道がカーブを描き、両脇の木々にはリンゴの花みたい な白い花、ボタン桜みたいなピンクの花が満開だ。

 ようやくトイレがあったので用を足した。内側のカギは壊され、人はソソクサと用を済ませてサッと出る。人 目につかない所で互いに出逢うと、まず警戒しなければならないらしく、外の緑に戻っても、白けた気分は続いている。カッ プルや子連れが多い時刻のようだ。途中ふんだんにあるベンチで休み、緑と人を眺める。

 幼稚園児が集団で各々
1本のロープにつかまって来た。先生が遊び場を指すと一斉にその緑 地に向かって走った。それだけが明るい。

 時差ぼけのせいか、時間がアッという間に過ぎて、公園の反対側に抜けたのは午後
2時。その近くには、巨大なメトロポリタン博物館が、前面の階段一杯に観光客を乗せて待っ ていたかのようだったから、僕たちも入った。

 入場券
25ドル、シニア15ドルと表示され ていたが、一寸受付と会話をしたら、実際は払えるだけ払えば良いんです、とのこと。そこで僕は10ドルにして貰って入場。まず古代ギリシャ展から見始めた。ほとんどは寄付そ してメトロポリタン美術館がスポンサーとなって発掘した物だそうだが、正に膨大な人類の遺産が、歴史と地 域に分けて展示されている。スケッチをしている人、写真を撮る人も多いが、圧倒的なのは団体客である。今やニュー ヨーク経済のかなりを観光に依存している。ドル安のせいもあって、価が若いヨーロッパ人にとっても気楽 に来れる場となっている事情もある。僕達のホステルは、他のホステルより高く、1ベッド35ドル、中華料理のテイクアウトがラーメン2ドル25セント、バスが2ドル半。そしてこの博物館以外にもモダン・アート美術館など、かなりの過去の栄光がこの都市には散 りばめられている。

 メトロポリタン博物館では
2階の南インドとカンボジア・アンコール文明の彫刻が特に印象的 だった。そしてここの展示は、小物はガラスケース内だが、大物はごく近くまで近づけるほ ど、柵もなく、開放的になされている。勿論、見事に存在を消した黒背広の警備員が各所に立ち、客が触ろう とすると「Donユt touch」。ケイタイの電話が鳴ると「No Phone」の重い声が飛ぶ。客をハッとさせて指示に従わざるを得ない力がある。

 午後
4時過ぎに博物館を出た。向こうの方から大群衆がシュプレヒコール をしている声が聞こえた。その方向に歩くとプラカードが乱立、その先頭にマイクでは弁士が 次々とアジ演説をしていた。「ちゃんと契約を!」とか「健康保護を充実させろ!」とかの労働関係のデモ。ざっと2000人位が、セントラルパークを横切る車道を埋め、特にホットなのは、ハンドマ イクでゴスペルソングを歌う中年の黒人女性の一団だ。

(エッここ、コンゴ?)とまで思わせるその歌と踊りの迫力に、しばし釘付けとなった。デモ隊はあらゆる方 角から駆け足で集合する人で更にふくれあがった。ニューヨークでは南北戦争後の奴隷解放以前に、白人雇用 主が、長い年季奉公をした奴隷を自由の身にしてやり、そんな黒人のコミュニティが初期か らあり、近年黒人専用の共同墓地も発掘されたとのことをデモ隊の黒人より聞いた。メキシコ系も多くてスペ イン語が飛び交うデモ隊には、圧倒されっぱなしだった。確かに、この市の黒人は、自信を持っているように 見える。メキシコ人も後発ながら、陸続きに侵出した強さを持っている。

 帰りのバスの運転手はかなり年配の黒人だった。バス代
2ドル25セン トはコインで支払わなければならない。僕のコインは75セント足りなかったが、おうようにうなずき乗せてくれた。客 はほとんどが黒人かメキシコ人かアジア人かだ。たまの白人は身障気味の老人ばかり。とた んに、ニューヨークのハイソな建物の裏側を見た思いがした。

 渋滞ひどい夕方、ようやくバスを降りて、ホステルに向かう道は低所得者用の団地アパート群を抜く道だった
7.8階建てのアパートのれんが壁には、NYPDニュー ヨーク市警)の監視カメラ作動中の看板が例外なく貼られている。確かにその道には屈強な黒人の若者がたむ ろしていた。だが、顔見知りの通行人とジョークを交わす位で、明るい雰囲気である。僕も危険な思いはまった くしなかった。

 ニューヨークのマンハッタンは南北に走る主要な道から一歩横に外れると、住民同士が立ち話をしている光景が良く見 られる。黒人街だけではなく、中国人街、イタリア人街などもある。
40上の言語が話され、地域でもその言語が独立して使われているという。この人種のモザイ クをひとつひとつまとめるには、効率の良い管理社会しかあり得ないだろう。小さな外国がひとつの都市に隣 り合わせとなってつみこめられているのだ。

 そして、今や黒人の大統領を選んだ国だ。確かに
40年以上前のSF小説 「ブレードランナー」に黒人の警部、白人の刑事という配役あたりから、映画・テレビで黒人管理職、白人の 現場仕事師といった配役の組み合わせが目立ってきた。黒人はアメリカ先住民、白人に次ぐアメリカの古参民族であ る。それを正当に評価しなければ収まらない位、白人至上主義は権威を保てなくなったのだろう。人口からし て、白人はマイノリティになりつつある人口増加の先頭を切るのがメキシコ人なのか、スペイン 語がメトロ、バス路上でひんぱんに耳にすることで判る。

 たぶん、大陸横断鉄道の抗夫から出発した
19世紀からの中国人、そしてベトナム難民の多くを占めた中国系ベ トナム人も多い。そして韓国系。街のスナック屋台はアラブ、パキスタン、インド系のよ うだ。ヨーロッパ系の白人にはアングロサクソン、ゲルマン、ラテン、アイリッシュ、ジューイッシュ、スラ ブ系と色とりどりだ。その全ての民族と人間的に付き合える余裕があるのが黒人系のような印象を受ける。彼らには戻 るべき故郷はない。

 奴隷狩りをしたのは同じ黒人の他部族だったのだ。そうして白人に売られた
1,500万人ほど の黒人奴隷が、南北アメリカ、カリビア湾に送られた。これほどの人口が一気に民族移動をしたのは、人類史 上初めてであった。人類史のあけぼの期には27種類が居て、そ の内の7部族がアフリカを出、今日のユーラシアや北アフリカへと移住し、 世界の人種の元となった。だが、奴隷貿易はアフリカに居残った20部族からもアメリカへ強制移住させた。だから南北アメリカには、ユーラシア地中海中東 の民族とは違う要素が紛れている。ブルース、ジャズ、ヒップップ。こんな音感の世界も後から出された20部族の血によるものかも知れない。それがニューヨークで実感した人類史のマ ンダラであった。

 明日は北北東、午後
6時高速バスで3時間余のAlbanyに行く。ホステルに戻るとドーミトリーのベッドは大きく木製、与えられたシー ツもまっ白、部屋の空間も広いのにはホッとする。この巨大なホステルを建てたのは、メトロポリタン博物館 を建てたのと同じ建築家だという。今日は彼の作品を2つ体験したことに もなる。

 飛行機内の緊張と時差で不足していた睡眠を取り戻すかのように眠りに落ちた。

(澤村)

Tuesday, April 13, 2010




























pictures of nuclear free walk


Monday, April 12, 2010

NY到着

 成田出発が午後2時でソウル経由ニューヨーク着午後8時半。だが実際はこの約倍の13時間を飛行機内で過ごしたこととなる。太陽の昇る方向へと時の 流れを逆流した。光が風としたらかなり風あたりの強い中を飛んだこととなる。成田、そ してトランジットしただけのソウルでは、念入りに手荷物と身体をチェックされたが、ニューヨークJFK港では、「貴方アメリカ初めてですね。ウェルカム」と入管の係官に歓迎さ れた。指紋と顔写真は撮られたけれど、その東洋系が少し混じっている若い係官のお陰で、(やはり現地に来 なければ、土地人のことは判らない)とこれまでアメリカ人に持っていた自己顕示欲やらの印象を改めること から入国したのだった。
 
JFK国際空港のスタッフは黒人が圧倒的に多かった。入国審査に並ぶ客 を支持して窓口に仕分けるのは全員がエネルギッシュな黒人。大柄な肉体と早い英語見 事に人群をズラッと並んだ窓口に振り分ける。だから渋滞せずに人は次々と国境のゲートを通り抜けていく。通 関も黒人ばかりだ。あっけなく外に出てから、600人以上を収容 できるというユースホステルに電話した。図書館で読んだガイブック「ロンリープラネット」にあったのを 書き留めておいたのだ。ひとつ目の公衆電話は機能しておらず、コインも戻らなかった。

 同行の
Mが「お布施したんでしょう」とのコメント。隣の電話はクールな受 付の女性が出て、「リザベーションすることなしにただここに来なさい」との簡単なア ンサー。そこで、空港から市内のコロンビア・サークルまでの空港特急に乗ることとした。

 午後
9時半頃なのにプラットホームに乗客は少ない。切符の買い方が判ら なかったが、そこに立っていた黒人の係員が紙幣を受け取るとコインに転換、そして切 符を買うボタンを押してくれ、ついでに無料にニューヨーク列車マップもくれた。

 「
Have a good trip!」との明るい彼の声に送られて乗車。 列車はまず7.8個のターミナルを順ぐりに廻る。空港も大きい、列車も大きい。空 港を抜けると、疲れ果てたストリート・ピープル国の黒人が数人乗り込み、すぐ眠り込ん だ。ブルックリンには貧民層が多いという現実、犯罪も多発するというガイドブックの記事を思い出したが、皆 が互いに知らん顔をしており、パソコンを使う者からイアホンで音楽を聴いて身体を動かす者など、勝手にやって いる。メキシコ系も多い。スペイン語が飛び交っている。マンハッタン島に近づくと、ドッとコロンビア・ サークルにて乗り換えたMetro内には若い女性群がケラケラ笑いながら大声スペイン語でおしゃべ り中。切れの良い発音だ。「love Ner York」の赤いロゴとハートマーク のTシャツ姿。スペインから来たという。ヨーロッパ人はアメリカに来ると陽気な るのだろうか。103 rd Streetで下車。狭い出口、狭い回転ド アー。その先にエスカレーターもない。今回は国連の核不拡散条約NPTの改定に向けたウォーク参加とその後に南部西部のキャンピングを旅するつも りだから、荷が多い。それを老人用手押し車で運んでいる。ようやく階段を上った地表には、クラシックな煉 瓦壁のビルが並んでた。1ブロック先の角に溜まる黒人にユースホステルの場所を聞くと、 「向こうの側の巨大なクラシック・ビルがそれ」と指した。誰もが行く先を瞬間にしてす 都市だ。ホステルの受付も見事に効率的にさばく。2階(日本式には3階)の10ベッド2段ベッドの下段。ひ とりだけ年配のアメリカ人が熟睡中。それから角のスーパーでライ麦パン、バナナ、ヨーグルトを買い、ロッカー用のシ リンダー型のカギも受付で買う。このカギ、右へ3回左へ2回そして右へ1ナンバーを廻して合わす金庫式。5ドル。有り難いことに、ホステル前の庭にはスタンド型の大きな灰皿を置いてある。Mがビールを買って無事の入国を乾杯。ささやかな夕食。ニューヨークは札幌と同じ北にあ る。肌寒い。シャワーの湯が出なかったが思い切って浴びる。飛行機の13時間がぶっ飛んで、ただ眠った。

(澤村)

Utube of March 6th Opening Ceremony in Steamburg New York

http://www.youtube.com/watch?v=I9BukYO5X3Y&feature=player_embedded#

Thursday, April 1, 2010

Ithaca and beyond

Walking out of Ithaca to Dryden today was a sight I didn't think could happen on this winter walk. It was 72 degrees and we were in T-shirts. Many of our wonderful supporters and organizers walked with us and it was the largest group we had since the 21 Seneca students walked with us back in Cattaraugus territory.

Over the past 3 days, a local peace and justice videographer shot film of the programs we participated in and also along the walks.

See it at: TCAW.BLIP.TV

http://sjc.unitarian.ithaca.ny.us/?p=89