6時起床。祈り。今日は土地人が増えてウォーカーは26人。街郊外の海軍原子力研究所へ行く。ここで、原子 力潜水艦の原子炉が研究され、訓練もされる。海軍はもう一つ、ハワイに同様の施設を持ち、計2万7千人が双方で働いているという。その鉄柵に祈り鶴を下げている と、マッチョな私服、そしてサングラスに黒いユニホームの警備員が4名駆けつけた。全員軽機関銃と腰に重いバッグつき。ウォークの現場コーディネイター、73才の白人Jが対応する。この研究所には、200名ほどの優秀な科学者が勤務するというが、物々しい警備の外には、広大な敷 地にビルが点在しているだけだ。
20メートルほどの川に沿った道を歩く。遅れ気味の僕を、やはり遅れ 気味の太ったNが、大きなNuclear Free Futureの旗を肩に下げ、ずっとつきそってくれる。ただ二人で歩いている内に道を間 違ったのではないか、と不安となり、ケイタイを試したら、初めてアメリカで通話できた。10キロメートルほど先で、旗をかかげて待っている者に出逢った。それまでは、林 の中の小城みたいな住宅ばかりで、日曜なのに人の影ひとつ見なかった。「どんな人が住人でいるのか」と同 行者に聞くと、「Politician」と答えた。彼らは一行の太鼓の音を聞き、窓の内側より旗の進 むのを見ているのだろうか。「ここらの人たちは、市内に住んで金貯めて、郊外にでかい家 を買い、その内子供がさびしいとか言うのでまた市内に移るのさ」と付け加えた。
ウォーカーの止まっていたのは、センスの良い中位のサイズの民家だった。太鼓の音を聞いた当家の女性 が、かつて純さんと会い、その後ピースパゴタにも行ったことのある人で、ピンときて家から出ると純さんに 再会。お茶に招いてくれたのだ。昨日コンピューターを借りた民家に次いで、一般家庭にま た入った。広く家具調度品は立派だ。
今朝教会を出る時に、入口に20人ほどの貧しい人たちが、日曜朝のフリーミールを待っていた。黒 人と白人の老人が多かったが、皆どろ臭かったり、悲しそうだったりした。その差がどこに でもある。
そして、今日の行進に先住民はまったく消えている。そう言えば、昨夜彼らが「明日は、西の門から東の門に入る」と 言っていた。つまり、首都オルバニー近くは、白人地帯と見なされているのだろうか。モザイク状に、都市内 でも各人種が別れているように、地域でもそのように互いのテリトリーを意識しているのかも知れない。 まだ入国して8日目だ。判らないことばかりだ。小さな出来事を結びつけて自分な りのアメリカ像を作るしかない。だから、意識的に質問もしておらず、相手が自然に言った ことを元として、この記事も書いている。
どこの市内も、郊外からの金持ちが戻る現象が起こっているらしく、住宅からして高級マンションか高級住 宅、もう一方は低所得者アパートか、古い互いの壁をくっつけた家。と、見事に分かれている。こんな近くで 互いの差を見ていたら、互いにつらいものがあるだろう。そのギャップを歩いて行く。正 面に議事堂らしき両肩のそびえるビルの建つ道の歩道を延々と行く内に、僕の歩みは限界にきた。サポート・カー がそこで待っていた。今日は2.3キロは歩行距離を延ばしている。たぶん12キロ位か。ずっと曇りっぱなしだったが、雨も降らず、風も弱かった。日曜日 らしく市内の人もゆったりとして、あいさつする若者も何人かいた。
ニューヨーク州の首都Albany。そこのフリースクールに泊まるが、その手前で車に乗り込んだ。落 伍組のもう一人は林の中の道を延々と二人だけで歩いた時の、太ったNだった。彼は体重がハンディとなっている。12年間ほど海兵隊と空軍に入隊していた元軍人の40才。だが、そういう過去を言った後、「それ以上は聞かないで」とクギを刺した。 運転するのは一昨日と同じ、息子がアフガニスタンで負傷したという母親。車に入ったとたんに、小雨が降っ てきた。
フリースクールは黒人が目立つ古い地区だった。それが堂々とした州会議場や、 モダンなビジネス・ビルのすぐ裏にあった。Amsterdamにもある軒を並べた良い造りの家だ。ウォーカーのひとりがそこ に住んでいた。招かれて中に入ると階段は急だけど、3階にある彼の家 は、ホッとさせられる質素ながら味ある部屋が3つほど。家族で住んでいるようだが、物が本当に少ない。
フリースクールはより大きな部屋が1階2階にあり天井も高 かった。10数人の子供たちとその親、そして平和活動をしている素朴な男女が 集まったから、サークルは大きくなった。セネカ族から始まる各宗派の祈り、そしてス ピーカー。堂々とした体格のカユガ族のアレンさんが最初。
「ウェスト・ヴァリーのセネカ・テリトリーに核廃棄物が捨てられた。水や大地が汚染されたことで健康を 損なう者が多くなり、流産、奇形児の問題も重なり、1990年 代に3カ所の核廃棄物所の1カ所が除去されたが、未だ、2カ所ある。かつてシックス・ネイションに来たヨー ロッパ人は天国を見つけたと喜び入植したが、我々にとっては苦難の始まりとなった。私も汚染された ことを知らずに子供の頃、その場所で遊んだりした。ここの核廃棄物は原爆を作った時のものだ。国連に核廃 絶を訴えたい」。
ハイドロンさん。「第2次大戦中に悲劇の起こった場で断食し、祈ることをしてきました。1987年に、2人の僧がストックホルムからアテネに向かって核凍結を訴えて歩 いているのを見ました。私も1日だけ歩いたのが最初。1980年代、西ドイツに配置された核弾頭は1.400発。その1個だけでも広島原爆の13倍の威力があった。今は240発だが我々の兵士が使うよう訓練を受けている。5月3日の国連NPT会議で、全 ての核廃絶を訴えよう」。
日本人しげるさん。「1945年8月6日広島原爆、8月9日長崎原 爆。8月15日終戦。私の父 はソ連軍によってシベリアに2年間抑留されました。そこで多くが死にました。母は戦 時中の状態を男一人に対してトラック一杯の女性位の率で、男が少なかったと言いました。父は77才で亡くなる2週間前に舞鶴に行きたいと言いましたが、実現できませんでし た。私はそのことを、今だに悔やんでいます。大陸から引き揚げた日本人は舞鶴に上陸した のです。日本は平和憲法を持ったことにより、私たちは戦争を体験せずに済みました。それは戦争で自分たち だけではなく、アジアの多くの人を犠牲にして得た憲法です。私がまずアジアで平和行進に参加のは、この前 の戦争のおわびをしたかったからです。今回は9.11以来のアメ リカで平和を訴えるために参加しました。
最後にフリースクール責任者クリス。「1982年に国連軍縮会議のあった時には全国全世界から100万人が集まり、デモをしました。その大群衆の中で偶然ですが、黄色の服を着 て太鼓を叩いている宗団に会いました。車椅子の老人を先頭として。その方が創始者の藤井上人でした。そ の後また偶然にここオルバニーでその音を耳にして会ったのが、純さんです。その時彼女は、カリフォルニアを追われた デニス・バンクスがオノンダカ族のテリトリーに逃げ、ニューヨーク州知事に州内を自由に動けるよう請願し ていました。純さんがそこから州都オルバニーまで一週間歩き、州知事庁舎前で1週間断食をすることを、1年間繰り返してい た時のことです。彼女はこのフリースクール前に住むクエーカー教徒の女性の家に泊まっていたので親しくな り、グラフトンに法塔を建てる時にはフリースクールのスタッフが最初に駆けつけ、泥の道を3トンの岩を20人がかりで転がし上げるようなこともしました。5月2日に向けて、オルバニーからも何台もの大型バスを仕立てて国連に 向かいます」。
ここはフリースクールだから子供が多く、広い空間で自由に学び遊んでいる。多くの人を泊めることに慣れ ているようだ。男と女別部屋となって、厚いマットが一面に広げられた。都市の中心だというのに、伝統的な 造りの家だけのこの通りは本当に静かである。
世界中の国の軍事費の合計した額の半分を一国で使っている国アメリカに、100兆円をイラク 戦に、しかもその内の数兆円はわいろやら無駄に使い、現大統領も300億円をアフガニスタンに使うと宣言した国アメリカに、これだけ色々な平和運 動をしている人がいる、という事実に、心が静まってくる。
そして、このフリースクールの経済基盤もユニークだ。この黒人街の通りで半壊した建物を買い、それを皆 の手で修理してアパートに改造、その家賃でもってフリースクールの運営費をまかない、40年間続いてきたというアメリカで一番古いフリースクールコミューンの自信がそう安心させるのだろ う。教師は既に2代目3代目だ。ス ピーチをしたクリスさんは既にリタイアしているが、かつて日本の宝島出版社より「学校へ行きたくない子供たちの学 校」という本を出版し、一時はかなりの日本人がここを見学に来たとのこと。彼らはグラフトンの仏 舎利塔建設にも、フリースクールから紹介され、訳判らなかったようだが奉仕をしたという。
このフリースクールの生徒は現在約50人、毎日幾つものカリキュラムがあり、生徒は自由に選べる。3才の保育園児から12才まで。運営については、生徒と教師が同じテーブルを囲んで話 し合い、また生徒だけで話し合うこともあり、その時は教師は後ろに座り、ただ聞いている だけだという。学費は少額、より貧しい者は奨学生として無料。
夕飯。日常的にこのような団体を収容しているらし く、食事にしても見事に菜食バイキング料理が出てくる。暖房も丁度良い温度。床の小さな穴から温 気が吹き上げる方式だ。マットの上で楽々と寝た。
(澤村)
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