Wednesday, April 28, 2010

Back to the walk

On April 10th, I got on an Amtrak train heading east. I got off at a beautifully restored train station in Utica and rejoined the Walk for a Nuclear Free Future that day.


It has been quite the adventure, rejoining the walk after leaving it in Rochester. The scenery had changed greatly. I was out of Western New York and had entered the Mohawk Valley. Later, we were to walk into the Hudson River valley, which is where we are now. Unlike the Buffalo to Rochester experience, which took me through familiar territory, I had come to a part of the state that I really did not know well.

But there has been one common thread that has linked Western New York with these other parts of the state, which is the rivers. I have always been drawn to water. I remember that,on Saint Patrick's Day, we walked along the shores of the Niagara River to Niagara Falls. We were amazed and intrigued by the enormous volume of water flowing over the falls. Rainbows formed above the falls. It was a stunning sight.

When I rejoined the walk, we were walking along the Mohawk River and the Erie Canal. We crossed and recrossed the river on those bridges that I truly don't like! One of the most wonderful experiences of the walk occurred outside of Fonda, when we stayed at the Mohawk Community with Alice and Tom Porter. We ate traditional corn soup and mush (very yummy) and learned quite a bit about the Mohawk culture.

I was sad to leave the Mohawk Community, where I felt at peace. We were surrounded by the beautiful hills and waters of Central New York. I could see horses and cows and I could walk through the woods to a cold stream. It was good.

I have to admit that one of the reasons that I chose to rejoin the walk after having been away for two and a half weeks was to see the Hudson River. I had seen the Hudson many times through the windows of a train and I very much wanted to see it within touching distance, much as I had the Mississippi River when I participated in the Witness Against War walk in 2008.

The river was beautiful but I have learned that it is full of sorrow, much as the Niagara River is full of sorrow. Radioactive waste has been found in the Niagara River, byproducts of the Manhattan Project of the 1940s. This radioactive waste has been found all over Western New York: in Lewiston, West Valley, Tonawanda. It has resulted in birth defects and all sorts of cancers. In the Hudson River, we were told, there is radioactive waste resulting from the Indian Point Nuclear Power Plant.

We walked to the western shore of the Hudson River and could see the Indian Point Nuclear Power Plant on the far shore. We all dropped to our knees, praying and crying. We cried for the river and for the children who would inherit this wounded earth. We cried for the victims of depleted uranium. Tears kept flowing for the damage that uranium mining does to the earth. Our tears fell for the harm that the heated water does to the fragile ecosystem of the Hudson River.

Water is life. That is probably why I am so attracted to it.

The walk is about to end. I will write more when I come home.

Bye bye for now.
alice

Monday, April 19, 2010

Niagara Falls

Sunday, April 18, 2010

Albany/フリースクール

 6時起床。祈り。今日は土地人が増えてウォーカーは26人。街郊外の海軍原子力研究所へ行く。ここで、原子 力潜水艦の原子炉が研究され、訓練もされる。海軍はもう一つ、ハワイに同様の施設を持ち、計27千人が双方で働いているという。その鉄柵に祈り鶴を下げている と、マッチな私服、そしてサングラスに黒いユニホームの警備員が4名駆けつけた。全員軽機関銃と腰に重いバッグつき。ウォークの現場コーディネイター、73才の白人Jが対応する。この研究所には、200名ほどの優秀な科学者が勤務するというが、物々しい警備の外には、広大な敷 地にビルが点在しているだけだ。

 
20メートルほどの川に沿った道を歩く。遅れ気味の僕を、やはり遅れ 気味の太ったNが、大きなNuclear Free Futureの旗を肩に下げ、ずっとつきそってくれる。ただ二人で歩いている内に道を間 違ったのではないか、と不安となり、ケイタイを試したら、初めてアメリカで通話できた10キロメートルほど先で、旗をかかげて待っている者に出逢った。それまでは林 の中の小城みたいな住宅ばかりで、日曜なのに人の影ひとつ見なかった。「どんな人が住人でいるのか」と同 行者に聞くと、「Politician」と答えた。彼らは一行の太鼓の音を聞き、窓の内側より旗の進 むのを見ているのだろうか。「ここらの人たちは、市内に住んで金貯めて、郊外にでかい家 を買い、その内子供がさびしいとか言うのでまた市内に移るのさ」と付加えた。

 ウォーカーの止まっていたのは、センスの良い中位のサイズの民家だった太鼓の音を聞いた当家の女性 が、かつて純さんと会い、その後ピースパゴタにも行ったことのある人で、ピンときて家から出ると純さんに 再会。お茶に招いてくれたのだ。昨日コンピューターを借りた民家に次いで、一般家庭にま た入った。広く家具調度品は立派だ。
 今朝教会を出る時に、入口に
20人ほどの貧しい人たちが、日曜朝のフリーミールを待っていた。黒 人と白人の老人が多かったが、皆どろ臭かったり、悲しそうだったりした。その差がどこに でもある。
 そして、今日の行進に先住民はまったく消えている。そう言えば、昨夜彼らが「明日は、西の門から東の門に入る」と 言っていた。つまり、首都オルバニー近くは、白人地帯と見なされているのだろうか。モザイク状に、都市内 でも各人種が別れているように、地域でもそのように互いのテリトリーを意識しているのかも知れない。 まだ入国して
8日目だ。判らないことばかりだ。小さな出来事を結びつけて自分な りのアメリカ像を作るしかない。だから、意識的に質問もしておらず、相手が自然に言った ことを元として、この記事も書いている。

 どこの市内も、郊外からの金持ちが戻る現象が起こっているらしく、住宅からして高級マンションか高級住 宅、もう一方は低所得者アパートか、古い互いの壁をくっつけた家。と、見事に分かれている。こんな近くで 互いの差を見ていたら、互いにつらいものがあるだろう。そのギャップを歩いて行く正 面に議事堂らしき両肩のそびえるビルの建つ道の歩道を延々と行く内に、僕の歩みは限界にきた。サポート・カー がそこで待っていた。今日は
2.3キロは歩行距離を延ばしている。たぶん12キロ位か。ずっと曇りっぱなしだったが、雨も降らず、風も弱かった。日曜日 らしく市内の人もゆったりとして、あいさつする若者も何人かいた。

 ニューヨーク州の首都
Albanyそこのフリースクールに泊まるが、その手前で車に乗り込んだ。落 伍組のもう一人は林の中の道を延々と二人だけで歩いた時の、太ったNだった。彼は体重がハンディとなっている。12年間ほど海兵隊と空軍に入隊していた元軍人の40才。だが、そういう過去を言った後、「それ以上は聞かないで」とクギを刺た。 運転するのは一昨日と同じ、息子がアフガニスタンで負傷したという母親。車に入ったとたんに、小雨が降っ てきた。

フリースクールは黒人が目立つ古い地区だった。それが堂々とした州会議場や、 モダンなビジネス・ビルのすぐ裏にあった。Amsterdamにもある軒を並べた良い造りの家だ。ウォーカーのひとりがそこ に住んでいた。招かれて中に入ると階段は急だけど、3階にある彼の家 は、ホッとさせられる質素ながら味ある部屋が3つほど。家族で住んでいるようだが、物が本当に少ない。

 フリースクールはより大きな部屋が
12階にあり天井も高 かった10数人の子供たちとその親、そして平和活動をしている素朴な男女が 集まったから、サークルは大きくなった。セネカ族から始まる各宗派の祈り、そしてス ピーカー。堂々とした体格のカユガ族のアレンさんが最初。
 「ウェスト・ヴァリーのセネカ・テリトリーに核廃棄物が捨てられた。水や大地が汚染されたことで健康を 損なう者が多くなり、流産、奇形児の問題も重なり、
1990年 代に3カ所の核廃棄物所の1カ所が除去されたが、未だ、2所ある。かつてシックス・ネイションに来たヨー ロッパ人は天国を見つけたと喜び入植したが、我々にとっては苦難の始まりとなった。私も汚染された ことを知らずに子供の頃、その場所で遊んだりした。ここの核廃棄物は原を作った時のものだ。国連に核廃 絶を訴えたい」。

 ハイドロンさん。「第
2次大戦中に悲劇の起こった場で断食し、祈ることをしてきました。1987年に、2人の僧がストックホルムからアテネに向かって核凍結を訴えて歩 いているのを見ました。私も1日だけ歩いたのが最初。1980年代、西ドイツに配置された核弾頭は1.400発。その1個だけでも広島原爆の13倍の威力があった。今は240発だが我々の兵士が使うよう訓練を受けている。53日の国連NPT会議で、全 ての核廃絶を訴えよう」。

 日本人しげるさん。「
194586日広島原爆、89日長崎原 爆。815日終戦。私の父 はソ連軍によってシベリアに2年間抑留されました。そこで多くが死にました。母は戦 時中の状態を男一人に対してトラック一杯の女性位の率で、男が少なかったと言いました。父は77才で亡くなる2週間前に舞鶴に行きたいと言いましたが、実現できませんでし た。私はそのとを、今だに悔やんでいます。大陸から引き揚げた日本人は舞鶴に上陸した のです。日本は平和憲法を持ったことにより、私たちは戦争を体験せずにみました。それは戦争で自分たち だけではなく、アジアの多くの人を犠牲にして得た憲法です。私がまずアジアで平和行進に参加のは、この前 の戦争のおわびをしたかったからです。今回は9.11以来のアメ リカで平和を訴えるために参加しました。

 最後にフリースクール責任者クリス。「
1982年に国連軍縮会議のあった時には全国全世界から100万人が集まり、デモをしました。その大群衆の中で偶然ですが、黄色の服を着 て太鼓を叩いている宗団に会いました。車椅子の老人を先頭として。その方が創始者の藤井上人でした。そ の後また偶然にここオルバニーでその音を耳にして会ったのが、純さんです。その時彼女は、カリフォルニアを追われた デニス・バンクスがオノンダカ族のテリトリーに逃げ、ニューヨーク州知に州内を自由に動けるよう請願し ていました。純さんがそこから州都オルバニーまで一週間歩き、州知事庁舎前で1週間断食をすることを、1年間繰り返してい た時のことです。彼女はこのフリースクール前に住むクエーカー教徒の女性の家に泊まっていたので親しくな り、グラフトンに法塔を建てる時にはフリースクールのスタッフが最初に駆けつけ、泥の道を3トンの岩を20人がかりで転がし上げるようなこともしました。52日に向けて、オルバニーからも何台もの大型バスを仕立てて国連に 向かいます」。

 ここはフリースクールだから子供が多く、広い空間で自由に学び遊んでいる。多くの人を泊めることに慣れ ているようだ。男と女別部屋となって、厚いマットが一面に広げられた。都市の中心だというのに、伝統的な 造りの家だけのこの通りは本当に静かである。

 世界中の国の軍事費の合計した額の半分を一国で使っている国アメリカに、
100兆円をイラク 戦に、しかもその内の数兆円はわいろやら無駄に使い、現大統領も300億円をアフガニスタンに使うと宣言した国アメリカに、これだけ色々な平和運 動をしている人がいる、という事実に、心が静まってくる。
 そして、このフリースクールの経済基盤もユニークだ。この黒人街の通りで半壊した建物を買い、それを皆 の手で修理してアパートに改造、その家賃でもってフリースクールの運営費をまかない、
40年間続いてきたというアメリカで一番古いフリースクールコミューンの自信がそう安心させるのだろ う。教師は既に2代目3代目だ。ス ピーチをしたクリスさんは既にリタイアしているが、かつて日本の宝島出版社より「学校へ行きたくない子供たちの学 校」という本を出版し一時はかなりの日本人がここを見学に来たとのこと。彼らはグラフトンの仏 舎利塔建設にも、フリースクールから紹介され、訳判らなかったようだが奉仕をしたという。

 このフリースクールの生徒は現在約
50人、毎日幾つものカリキュラムがあり、生徒は自由に選べる。3才の保育園児から12才まで。運営については、生徒と教師が同じテーブルを囲んで話 し合い、また生徒だけで話し合うこともあり、その時は教師は後ろに座り、ただ聞いている だけだという。学費は少額、より貧しい者は奨学生として無料。
 夕飯。日常的にこのような団体を収容しているらし く、食事にしても見事に菜食バイキング料理が出てくる。暖房も丁度良い温度。床の小さな穴から温 気が吹き上げる方式だ。マットの上で楽々と寝た。

(澤村)

Saturday, April 17, 2010

行進団の人々

 教会の外に出た。肌寒い。ここは札幌より少し北に ある。あたりのアスファルトはまだずぶ濡れだった。夜、かなり降っている音がしていたのを思い出 した。例のごとく6時に祈りの集会。そして、JFK空港がアイスランド沖の火山噴火により閉鎖のニュース。新人が自己紹介する。中 にはフロリダから来た親子がいる。息子の一人がかつて参加していて、影響されたのだそうだ。まったく ウォークに参加している人は各々色々な関わりでやって来ている。5人ほどの先住民は、一昨年の先住民権利ウォークに参加して目覚め、今回の核をテーマとし たウォークにも参加した。シックス・ネーションの西端セネ族の土地、バッファローの南48キロに核廃棄物処理場があり、地域の住民やそこで働く労働者に深刻な被害をもたらしている、と いう事実をアピールするためだ。
 多数派は白人。コーディネイターの
Jさんは73才。い つもケイタイで問い合わせを受け付け、また、ウォークのための宿舎、サポート・カーの手配等を純さんに協 力してやっている。勿論、毎日歩き通してもいる。元軍人、元警察官、ニューヨーク州の人。その日、通りか かった街の人が、一日だけ参加する例もある。フランス人3名は若 く、ヨーロッパ、南アフリカ、オーストラリアのウォークにも参加している。日本の若い女性2が、こまめに料理をやり続けている。とても健康的な米、玄米に菜食が主だが、そ の街のボランティアが持ち込むパンやパスタやバター、チーズ等を組み合わせた豪勢な食事が毎回出てくる。昼 食はサンドイッチを屋外で。朝夕はバイキング・スタイル。勿論マイカップ・マイディッシュ・マイスプーン& フォーク。
 
Amsterdamの街を出るまで宿泊した教会の牧師が交通整理をしながら先導し た。道脇の住民が数人、これは何のウォークですか?と尋ねた。車道を歩いていてもクラクショ ンを鳴らしたり、手を振ったりして励ます運転手がいる。純さんによると、30年前は「ブラブラせずに仕事をしろ!」と、怒鳴られることも多かったという。道に身をさらすこと で、時代の変化を感じとれるのだろう。毎年ウォークを続けている70才代前半の年配者たちには、ゆるぎない存在がある。顔の厚い皮、地に降ろした身体。常 に落ち着いている。7~8キロメートル歩くと、小雨が降り始めた。風も強くなり、急激に冷え込んだ。この ウォークを37日にバッファロー で始めた頃には、雪も降ったという。

 今日僕は、
52日に民間団体が ニューヨークで開催するワークショップの申し込みを、苦手なコンピューターを通してやらなければならな い。現地のサポーターの車で、彼の自宅にて、彼に手伝って貰い申し込みをした。それから、土曜でも開い ているモールの郵便局で、原稿をいつもタイプ打ちして、ウェブに載せてくれる友人に送る。それがぶ厚かっ たので小包扱いとなり、用紙に内容等を書き込むこととなった。9.11以来、あらゆる面で規制が厳しくなったということだ。郵便局にパスポート取 得できる、とある。それは以前カナダに免許証だけで行けたのが、9.11以来不可能と なったからだ。モールを出た所で、ふと同行の彼がつぶやいた「昨日ここで少女が空気銃で撃たれて、首に ケガしたということだ。犯人はまだ捕まっていない」。見れば、SECURITYと書かれた車が止まっている。
 ウォーク一行は既に23キロメートル歩いてSchenectadyの街の教会に到着していた。この教会も広くまた中で迷った。夕 食前に街の平和運動家が10人余集まり、共に祈りを捧げた。アフリカのザンビアで唯一布教 をしている75才の森下上人が、平安時代には仏教が盛んで、刑務所に蜘蛛の巣が 張るほど犯罪が起こらず、死刑になった者は一人も居なかったとの話をした。ここの平 和運動家は、郊外にある原子力研究所に反対しているグループだという。皆知的なのは、州都Albanyに近いからか。今日の出発点のAmsterdamのさびれ様とは違って、家も新しく立派なのが多い。

 夕食は彼らも持ち込んだ食料も加わり、何を選んだら良いのか迷うほどだった。手作りのケーキまで!談笑 していると、ベトナム戦従軍した年配者がいた。当時は徴兵制でアメリカ人は自国を守るために戦うことが誇りとなて いるから、ほぼ皆が喜んで従軍したが、現場では酒を飲んだりする生活が続いたという。後になって、ベトナ ム戦の拡大したきっかけとなったトンキン湾事件(ベトナムの魚雷艇がアメリカ軍艦を攻撃した)は、作られた情報あ るのが判ったのだ。そして、退役してもその後の保障は余りにも少ないとのことだ。それに反して警察への保 障は充実しているという。

 今日はウォーク参加以来、初めてのシャワーをとった。近くの
YMCAまで車に乗せて貰うと、そこも迷う位大きなビルで、シャワーは20人ほどが一度に浴びれるように、一本の柱に4個ずつ 水口のついているタイプだった。教会の一部屋の床に泊まる。寝る前に数人がお灸をすえて、身体を整えた。今回の ウォークは計1.120キロメートル。既に半分以上を歩いた人たちの中には、足を引き ずっている人も何人かいる。

(澤村)

Friday, April 16, 2010

日本山妙法寺法尼(純さん)の話

 休憩時間に純さんが、タンポポや山菜をつまみ、数人が同じようにした。「買うだけではなくとも、食物は 得られますよ…という意味もあってこうしているのです」とのこと。後にそのスープとあえたのを食べたが、土地とのつ ながりを感じ、また整腸効果もあった。時差ぼけがそれで脱けた。

その後、純さんがアメリカに来て、先住民運動と関わったいきさつを話した。「
70年代の前半にスリランカの仏舎利塔を作っていた時、冗談でアメリカ在住の日本山妙法寺 の僧Mにアメリカに行きたいと言ったところ、その創始者藤井日達師匠 が、「アメリカ先住民が先住民法によって益々窮地に追いやられないため、アメリカ大陸横 断のロンゲスト・ウォークをやるとのこと。貴女はそれについて行って太鼓を叩き、励ましてやって下さい」 と航空券を渡されたのがきっかけとなった

 
1982年、第二次米ソ軍縮会議に向けても、ウォーク。途中で先住民のお ばあさんに会い、弱っている様子だったので指圧をしてやった。シックス・ネイション の長老で先住民のリーダー、デニス・バンクスが、ウンデッド・ニーの教会を占拠して、それまでアメリカ政 府が先住民と契約した約束を果たすよう要求し、連邦政府軍と対決した折の罪を問われ、当時先住民権利に理 解のあったカリフォルニア州知事ブラウンにより、その州内だけは自由を保障されていたの だが、知事が変わり捕まりそうになった時、次の避難所に選んだのが、この東北部のオノンタガ族、しかも彼 が泊まった家は、私が指圧をしたおばあさんの家だったのです。実はデニスが危ないと聞いた時に、私は州議会 前で断食アピールをしたいとデニスに許可を求めに行ったところ「もう遅すぎる。一緒に次の避難場所に行き ましょう」とのことで、デニスの家族とそのおばあさんの家に泊まることとなりました。彼女は実にそれから3年間の間、自分の寝室をデニスの家族に渡し、自分は居間の長いすに寝たのす。私はそ の下の床に寝ました。その間に私は先住民権利のため、オノンタガとニューヨーク州の首都オルバニーの間をひとりで ウォークし続けました。1週間歩き、1週間議会の前で断 食、そして車でオノンタガに戻り、またオルバニーに歩く事を繰り返しました。その間に、長野県大鹿村に居 た仏像彫り師がニューヨーク市で先住民権利運動の中心人物の牧師ハンクさんを紹介してくれ、彼が先 住民運動のシンボルを建てようと仏舎利塔について私がオルバニーの議会前で断食中に尋ねました。

 丁度、オーストリアで建てている所だったので、そう伝えると、彼は現場に飛び、仏舎利塔について理解し、グ ラフトンの彼の土地にそれを建てるよう土地を寄付してくれたのです」。

 なんという偶然とそれを結びつける努力のたまものだろう。


 今日、僕は
10キロメートルほどで、遅れすぎ、サポート・カーに乗った。運転の 女性の息子はアフガニスタンで道路脇の爆弾に頭を負傷したが、まだ現地に居るということ だった。

 出国前に藤本監督の撮ったアメリカの退役軍人の戦場体験と、帰国後の
PTSDやホームレ ス問題の記録映画を8時間、東中野ポレポレ座で観た。アメリカ成人人口の13%、3000以上の退役軍人がいる。戦場の記録映画はベトナム 戦以来観る機会がなくただテレビの爆撃シーンのみだったが、その映画はインタビューと退役軍人 の日常生活を追うだけなのに、かえって生々しさが伝わってきた。

 そのように、軍隊と軍事産業がかなりアメリカを特徴づけているのだが、純さんによると、刑務所産業が軍 事産業並に、重要となっているとのことだ特にニューヨーク州は全米でも刑務所の密度が濃く、
84カ所。犯罪を防ぐためという理由で、市民も税を使うのを許している。囚人の20%は黒人、メキシコ人と先住民も多いとのこと。例えば、道につばをはいただ け、というような、些細なことでも逮捕される理由となり、国選弁護士制度もあるが、効果なく、私選弁護士 を雇う金もない貧しい階級が入所することとなる。

 また、カリフォルニア州ではスリー
Aという法があり、些細な罪、例えば貧しくてピザを3回盗んだりしただけで一生刑務所暮らしをするはめとなり、また民間に刑務所を委託して、砂 漠の真ん中に建てた刑務所で、大きな工場で働くこととなるという。

 アムステルダムの街に夕方到着。かっては、リネン織物で栄えたというが今はさびれ、コロニアル風の塔と ポーチのある大きな家も空き家が目立つ。教会も何カ所もあるが、閉館されたものもある。

 まだ機能している教会大ホールの床泊まり。ゆったりと休んだ。

(澤村)

AD(アフリカ系アメリカ人)の話

 そして平和行進は、今日例外的に、朝遅く出発した。次の宿泊地アムステルダム市の教会が午後5時からしか開かないので、余裕を持ってゆっくりと歩いた。僕もついて行けるので、有難 いスピード。それでも徐々に遅れても、バッファローの通信社に勤めていた女性がしんがりの旗を持ちつきそってくれ る。本日の予定は短く、16キロほど。途中小雨ながら、ほとんどの人は雨具も使わず歩き続 ける。

 途中、昨日
Fondaまで車で送ってくれた中年の黒人と話しながら歩いた。黒人は平和 運動に参加しないのに、どうして貴方は参加したのですか?と尋ねると

「それは、奴隷制度があったという事実にまだ国が正面から向き合っていなからだ。この国の白と黒という 分離は、ほとんど永久に解決できないように思える。オバマは奴隷の子孫ではなく、アフリカ人と白人の混血 だ。私のもアフリカ人だが、我々は互いに大きく異なっている」と答えた。

(澤村)