Saturday, April 17, 2010

行進団の人々

 教会の外に出た。肌寒い。ここは札幌より少し北に ある。あたりのアスファルトはまだずぶ濡れだった。夜、かなり降っている音がしていたのを思い出 した。例のごとく6時に祈りの集会。そして、JFK空港がアイスランド沖の火山噴火により閉鎖のニュース。新人が自己紹介する。中 にはフロリダから来た親子がいる。息子の一人がかつて参加していて、影響されたのだそうだ。まったく ウォークに参加している人は各々色々な関わりでやって来ている。5人ほどの先住民は、一昨年の先住民権利ウォークに参加して目覚め、今回の核をテーマとし たウォークにも参加した。シックス・ネーションの西端セネ族の土地、バッファローの南48キロに核廃棄物処理場があり、地域の住民やそこで働く労働者に深刻な被害をもたらしている、と いう事実をアピールするためだ。
 多数派は白人。コーディネイターの
Jさんは73才。い つもケイタイで問い合わせを受け付け、また、ウォークのための宿舎、サポート・カーの手配等を純さんに協 力してやっている。勿論、毎日歩き通してもいる。元軍人、元警察官、ニューヨーク州の人。その日、通りか かった街の人が、一日だけ参加する例もある。フランス人3名は若 く、ヨーロッパ、南アフリカ、オーストラリアのウォークにも参加している。日本の若い女性2が、こまめに料理をやり続けている。とても健康的な米、玄米に菜食が主だが、そ の街のボランティアが持ち込むパンやパスタやバター、チーズ等を組み合わせた豪勢な食事が毎回出てくる。昼 食はサンドイッチを屋外で。朝夕はバイキング・スタイル。勿論マイカップ・マイディッシュ・マイスプーン& フォーク。
 
Amsterdamの街を出るまで宿泊した教会の牧師が交通整理をしながら先導し た。道脇の住民が数人、これは何のウォークですか?と尋ねた。車道を歩いていてもクラクショ ンを鳴らしたり、手を振ったりして励ます運転手がいる。純さんによると、30年前は「ブラブラせずに仕事をしろ!」と、怒鳴られることも多かったという。道に身をさらすこと で、時代の変化を感じとれるのだろう。毎年ウォークを続けている70才代前半の年配者たちには、ゆるぎない存在がある。顔の厚い皮、地に降ろした身体。常 に落ち着いている。7~8キロメートル歩くと、小雨が降り始めた。風も強くなり、急激に冷え込んだ。この ウォークを37日にバッファロー で始めた頃には、雪も降ったという。

 今日僕は、
52日に民間団体が ニューヨークで開催するワークショップの申し込みを、苦手なコンピューターを通してやらなければならな い。現地のサポーターの車で、彼の自宅にて、彼に手伝って貰い申し込みをした。それから、土曜でも開い ているモールの郵便局で、原稿をいつもタイプ打ちして、ウェブに載せてくれる友人に送る。それがぶ厚かっ たので小包扱いとなり、用紙に内容等を書き込むこととなった。9.11以来、あらゆる面で規制が厳しくなったということだ。郵便局にパスポート取 得できる、とある。それは以前カナダに免許証だけで行けたのが、9.11以来不可能と なったからだ。モールを出た所で、ふと同行の彼がつぶやいた「昨日ここで少女が空気銃で撃たれて、首に ケガしたということだ。犯人はまだ捕まっていない」。見れば、SECURITYと書かれた車が止まっている。
 ウォーク一行は既に23キロメートル歩いてSchenectadyの街の教会に到着していた。この教会も広くまた中で迷った。夕 食前に街の平和運動家が10人余集まり、共に祈りを捧げた。アフリカのザンビアで唯一布教 をしている75才の森下上人が、平安時代には仏教が盛んで、刑務所に蜘蛛の巣が 張るほど犯罪が起こらず、死刑になった者は一人も居なかったとの話をした。ここの平 和運動家は、郊外にある原子力研究所に反対しているグループだという。皆知的なのは、州都Albanyに近いからか。今日の出発点のAmsterdamのさびれ様とは違って、家も新しく立派なのが多い。

 夕食は彼らも持ち込んだ食料も加わり、何を選んだら良いのか迷うほどだった。手作りのケーキまで!談笑 していると、ベトナム戦従軍した年配者がいた。当時は徴兵制でアメリカ人は自国を守るために戦うことが誇りとなて いるから、ほぼ皆が喜んで従軍したが、現場では酒を飲んだりする生活が続いたという。後になって、ベトナ ム戦の拡大したきっかけとなったトンキン湾事件(ベトナムの魚雷艇がアメリカ軍艦を攻撃した)は、作られた情報あ るのが判ったのだ。そして、退役してもその後の保障は余りにも少ないとのことだ。それに反して警察への保 障は充実しているという。

 今日はウォーク参加以来、初めてのシャワーをとった。近くの
YMCAまで車に乗せて貰うと、そこも迷う位大きなビルで、シャワーは20人ほどが一度に浴びれるように、一本の柱に4個ずつ 水口のついているタイプだった。教会の一部屋の床に泊まる。寝る前に数人がお灸をすえて、身体を整えた。今回の ウォークは計1.120キロメートル。既に半分以上を歩いた人たちの中には、足を引き ずっている人も何人かいる。

(澤村)

Friday, April 16, 2010

日本山妙法寺法尼(純さん)の話

 休憩時間に純さんが、タンポポや山菜をつまみ、数人が同じようにした。「買うだけではなくとも、食物は 得られますよ…という意味もあってこうしているのです」とのこと。後にそのスープとあえたのを食べたが、土地とのつ ながりを感じ、また整腸効果もあった。時差ぼけがそれで脱けた。

その後、純さんがアメリカに来て、先住民運動と関わったいきさつを話した。「
70年代の前半にスリランカの仏舎利塔を作っていた時、冗談でアメリカ在住の日本山妙法寺 の僧Mにアメリカに行きたいと言ったところ、その創始者藤井日達師匠 が、「アメリカ先住民が先住民法によって益々窮地に追いやられないため、アメリカ大陸横 断のロンゲスト・ウォークをやるとのこと。貴女はそれについて行って太鼓を叩き、励ましてやって下さい」 と航空券を渡されたのがきっかけとなった

 
1982年、第二次米ソ軍縮会議に向けても、ウォーク。途中で先住民のお ばあさんに会い、弱っている様子だったので指圧をしてやった。シックス・ネイション の長老で先住民のリーダー、デニス・バンクスが、ウンデッド・ニーの教会を占拠して、それまでアメリカ政 府が先住民と契約した約束を果たすよう要求し、連邦政府軍と対決した折の罪を問われ、当時先住民権利に理 解のあったカリフォルニア州知事ブラウンにより、その州内だけは自由を保障されていたの だが、知事が変わり捕まりそうになった時、次の避難所に選んだのが、この東北部のオノンタガ族、しかも彼 が泊まった家は、私が指圧をしたおばあさんの家だったのです。実はデニスが危ないと聞いた時に、私は州議会 前で断食アピールをしたいとデニスに許可を求めに行ったところ「もう遅すぎる。一緒に次の避難場所に行き ましょう」とのことで、デニスの家族とそのおばあさんの家に泊まることとなりました。彼女は実にそれから3年間の間、自分の寝室をデニスの家族に渡し、自分は居間の長いすに寝たのす。私はそ の下の床に寝ました。その間に私は先住民権利のため、オノンタガとニューヨーク州の首都オルバニーの間をひとりで ウォークし続けました。1週間歩き、1週間議会の前で断 食、そして車でオノンタガに戻り、またオルバニーに歩く事を繰り返しました。その間に、長野県大鹿村に居 た仏像彫り師がニューヨーク市で先住民権利運動の中心人物の牧師ハンクさんを紹介してくれ、彼が先 住民運動のシンボルを建てようと仏舎利塔について私がオルバニーの議会前で断食中に尋ねました。

 丁度、オーストリアで建てている所だったので、そう伝えると、彼は現場に飛び、仏舎利塔について理解し、グ ラフトンの彼の土地にそれを建てるよう土地を寄付してくれたのです」。

 なんという偶然とそれを結びつける努力のたまものだろう。


 今日、僕は
10キロメートルほどで、遅れすぎ、サポート・カーに乗った。運転の 女性の息子はアフガニスタンで道路脇の爆弾に頭を負傷したが、まだ現地に居るということ だった。

 出国前に藤本監督の撮ったアメリカの退役軍人の戦場体験と、帰国後の
PTSDやホームレ ス問題の記録映画を8時間、東中野ポレポレ座で観た。アメリカ成人人口の13%、3000以上の退役軍人がいる。戦場の記録映画はベトナム 戦以来観る機会がなくただテレビの爆撃シーンのみだったが、その映画はインタビューと退役軍人 の日常生活を追うだけなのに、かえって生々しさが伝わってきた。

 そのように、軍隊と軍事産業がかなりアメリカを特徴づけているのだが、純さんによると、刑務所産業が軍 事産業並に、重要となっているとのことだ特にニューヨーク州は全米でも刑務所の密度が濃く、
84カ所。犯罪を防ぐためという理由で、市民も税を使うのを許している。囚人の20%は黒人、メキシコ人と先住民も多いとのこと。例えば、道につばをはいただ け、というような、些細なことでも逮捕される理由となり、国選弁護士制度もあるが、効果なく、私選弁護士 を雇う金もない貧しい階級が入所することとなる。

 また、カリフォルニア州ではスリー
Aという法があり、些細な罪、例えば貧しくてピザを3回盗んだりしただけで一生刑務所暮らしをするはめとなり、また民間に刑務所を委託して、砂 漠の真ん中に建てた刑務所で、大きな工場で働くこととなるという。

 アムステルダムの街に夕方到着。かっては、リネン織物で栄えたというが今はさびれ、コロニアル風の塔と ポーチのある大きな家も空き家が目立つ。教会も何カ所もあるが、閉館されたものもある。

 まだ機能している教会大ホールの床泊まり。ゆったりと休んだ。

(澤村)

AD(アフリカ系アメリカ人)の話

 そして平和行進は、今日例外的に、朝遅く出発した。次の宿泊地アムステルダム市の教会が午後5時からしか開かないので、余裕を持ってゆっくりと歩いた。僕もついて行けるので、有難 いスピード。それでも徐々に遅れても、バッファローの通信社に勤めていた女性がしんがりの旗を持ちつきそってくれ る。本日の予定は短く、16キロほど。途中小雨ながら、ほとんどの人は雨具も使わず歩き続 ける。

 途中、昨日
Fondaまで車で送ってくれた中年の黒人と話しながら歩いた。黒人は平和 運動に参加しないのに、どうして貴方は参加したのですか?と尋ねると

「それは、奴隷制度があったという事実にまだ国が正面から向き合っていなからだ。この国の白と黒という 分離は、ほとんど永久に解決できないように思える。オバマは奴隷の子孫ではなく、アフリカ人と白人の混血 だ。私のもアフリカ人だが、我々は互いに大きく異なっている」と答えた。

(澤村)

トム・ポーター(モホーク族)の話

 早朝起床。外に出たら曇り空に冷たい風。6時祈り。朝食後、20人のウォーカー皆でこのモホーク族コミュニティ責任者トムさん を囲み、話を聞く。この土地は彼のひいおばあさんの物であった。彼らが強制的に居留地 に移住させられた時、我々は必ず戻る、と言った通りに戻った。以下、トムの話。

「我々は西欧人の食生活を取り入れて以来、それが好きになりましたが、糖尿病にかかる者が多くなり、私自 身もそうですし、妻も今、視力の低下に悩むまでとなりました。しかし、伝統的なトウモロコシをベースとした食事に転 換したところ、かなり血糖値が低くなり、妻も手術を受けられるレベルとりました。

 私が子供の頃は、居留区には電気などの文明は届いておらず、夜寝る時はマキを節約するために、私はおば あさんに寄り添って暖をとっていました。
4才となった時のことです。朝目覚めた時に陽が窓から入り、おば あさんが「これが、創造主の指であり、腕なんだよ。創造主はこうして私たちや納屋の牛 や、木や草を、子供を愛するように包み込むんだよ。そして母なる大地をお前はただ<ニヤンウェ>ありが とうと言うのです。私達を生かしてくれる偉大な慈悲と愛に。我々は教会や王様や女王は要らない、と。

 先住民は、この世界一豊かな国で、真実と幻想を見分けられなくなってしまいました。老いた者は疲れ果 て、若者はルーツに戻ることを忘れてしまいました。しかし、全ての教えの元は、殺すなということであり、我々は
100年、200年かかろうと本来の教えに戻ろうとしています。今朝貴方がたが 祈っている姿に、私はただ泣いたり見せつけたりするより大切なものを感じました。ミュ ニティの女性達は、昨夜、偉大なスピリットが降りてきたと言い、子供たちも明るい目覚めをしました。

 そして貴方がたの中に、長年無実の罪で刑務所に入れられている先住民
Russel Meansが、彼の自伝 White Men Fear to Treadの中で数ページ渡って書いた日本人僧 侶、森下さんがこの中に居ることを嬉しく思います。彼はRussel Meansがブラックヒル国立公園の中に、キリスト教教会はそのまわりに2エーカーの土地を 与えられるのだから、先住民の教会であるティピとスウェットロッジのまわりにも2エーカー与えられるべきだと、そこを占拠した時、森下さんは彼らが当時持っていた一番良い住居、ト レーラーを与えられて住んだのです。

 ある朝、
Russel Meansは、いつものように夜警の当番を終え て、あたりを散歩していました。そしてキッチンで、森下さんが床にこぼれた米と豆を拾っているのを見まし た。それは、彼がその日生きるのに必要最小限の食料でした。その姿を数日見続け た後、彼は仲間に「この食料は皆創造主によって与えられたものだから、敬い大切にしようではないか」と 言ったのです。森下さんは毎朝近くの山頂に登り、太鼓を叩いて祈っていました。その音と彼の姿を見て、先 住民たちもその時に祈るようにもなったのです。

 今私は、敵のために働いています。我々のリーダーがそうするように言ったからです。刑務所でキリスト教 も、ユダヤ教も、安息日に祈りをささげられますが、先住民は宗教を持つ事を禁止されていました。しかし、
2000年に我々は権利を得、私は刑務所で先住民の祈りと、伝統的な食事を伝えてい ます。

 また、毎年
6月の最後の週に、ここで伝統的な儀式や伝統的な物語を伝える祭り をします。また、夏には2週間に渡って、モホーク語の学習会を開きます。シックス・ネイ ション(六部族連合)の中でも、モホーク族は最も部族語を日常的にも使っており、3000人が言葉を話せます。シックス・ネイションの他の部族、オノンタガやセネカ の言葉も似ている方言ですので、彼らもこの学習会に参加すると話せるようになります。

 今、私達はこのあたりに多く住む、現代文明を拒否して農業に従事するアーメッシュの人々のようになろう としています。彼らは常に忙しくしているので、精神が病む余裕もありません。ここにも来て色々と教えてく れます」。

(澤村)

Thursday, April 15, 2010

行進団合流/Fondaモホーク・コミュニティ

 Fondaのモ ホーク・コミュニティで一行はRestDayだという。朝からスカッと晴れた丘を歩いた。固いひ とかかえほどの石があちこちにある。純さんによると、だからここは農地として開拓されなかったと いう。そして所々に石をサークル状に積み上げているのは、かってこの地に住んでいたモヒカン族のものでは ないか、と言う。

 午後
2時頃、Fondaへと平和 運動には関わらない黒人としては例外ADの車で行く。途中Albanyニューヨーク州の州都を抜ける。古い英国風のビルと現代風のビルが混在す る人口5万人程のこじんまりとした都市はハドソン川沿いにあり、彼が街と 川の間にある川岸の小公園を案内してくれた。街から歩いて川岸に来るのは、ハイウェ イの上にかかっている歩道橋を登り降りするという。まず車を優先してアメリカの街は作られる、つまり遠距 離移動機能を重視するのは、オーストラリアもそうだった。移民社会とはそういうものなのかも知れない。

 この街で働く人の中には南部から移住した例も多いという。重厚な作りの州庁舎の脇の緑地に団地群があり、そ こは低所得者が多く犯罪率も高いという。立法府と犯罪地帯、両極のコントラストが並んでいる。

 鉄道に沿った
3車線道路の脇に、モホークのコミュニティ・ハウスがあった。中に 入ると迷うように大きい。カナダから来た旧友と再会。別れていた間のよもやま話に花が咲 いた。彼は定年退職後にミャンマーの寺で2年間修行。出家して、今は四国で瞑想センターを開いた。

 モホークの女性達とインディアンのとうもろこし粉の料理と、ウォーカーが歩いている間につまんだ山菜の夕食。よ うやくウォーカーと再会、夕食後サークルで自己紹介をした後に、重厚な造りの
2階部屋の床にホッとしたらすぐ眠った。

(澤村)

Wednesday, April 14, 2010

マンハッタンを離れる・Graftonへ

 昨夜は斜め上のベッドのアメリカ人の若者がケイタ イの音高く鳴らし、一寸注意したがお構いなしで、早朝にもまたけたたましいのに起こされ、寝起き が悪い。そこで散歩に出た。裏の低所得者用団地の広い中庭に大きな鉄のンチがあった。そこで朝陽を浴び る。緑が息づいている。

 団地の出口から出勤する若い黒人の男女が急ぎ足で出ては去る。杖をついた黒人の老人が向こうのベンチに座りゆっく りと、紙コップのコーヒーを飲み始めた。そこで僕もやはり紙コップを手にした通行人にコーヒー店を聞く「裏 の大通り」と男が指さす。もう一人が「角の向こう側」と付け加える。

 昨日と同じに、行き先はあっという間に判る。

 アラブ系らしい雑貨屋でコーヒーの大を買い、ベンチに戻りゆっくりと飲み干したら、出発時間の午前
9時に近くなった。ニューヨークでは何事もスムースに進行するためか、時間のたつのがす ごく早い。

 ホステルをチェックアウトするのに時間がかかった。
650名収容できる規模だから、ラッシュアワーには列に並 ばなければならない。

 ニューヨーク州の州都オルバニーに行くバスは、マンハッタン島の市街地ペンシルヴァニア駅前から出る。黒 めがねの黒人女性の運転するバスも混んでいた。そして老人と身障者、特に車椅子の黒人などの乗り降りに時間がかかっ た。

 客どうしの口げんかも起こった。そのひとつひとつをこの黒人女性運転手はテキパキとさばき、命令する。 「私はここで皆にサービスするためにいる」。ケンカのトラブルが発生した時に彼女の言った言葉が印象に残った

 ダウンタウン中心街で下車。活気ある人の流れの中で声を張り上げていたキリスト教の宣教師らしい
30がらみの男に、メガバスのありかを聞く。また時が素早く経って、もう集合時 間の11時に近い。宣教師に渡されたキリスト教のビラを片手に彼の指さし た方向へくと、角から摩天楼エンパイアーステートビルが見えた。あたりのビルもそ そり立っているから、僕が少年時代に見たように抜きん出た存在ではない。

 
2階建てのメガバスはほとんどの長距離列車の発車するペンシルヴァニア駅の脇 に停車中だった。列となった客はまもなく乗車した。そしてあっという間に発車してあっという間に緑広がる郊外に出た。 ニューヨークの空気が良いのは、片側は海、片側は広大な林があるからだと納得できた。3車線道路脇にはレストラン風の家が主だ。そのいずれもが星条旗をひるがえしている。

 道はハドソン渓谷に沿って北上。なだらかな丘が続く。樹には花がチラホラする。車の流れは絶え間なく、昨 日の日記を書いていたら、バスは停まり、あっけなく終点の
Albany到着。待っていたシャイアン族のLのニッサン乗用車に移る。彼は幼い頃母と共にサンフランシスコ に移住。母はインディアンであることを隠し通していたが、一昨年のグレーテスト・ウォーク に参加してから今回のウォークの中心、日本山妙法寺の尼さん、純さんと知り合い、全米数カ所の寺を行き来、最 近純さんの寺のあるGraftonに近いAlbanyに移住 したとのこと。

 その寺は林に囲まれた丘にあった。
10数年かけてボランティアが建てた家が2軒。そして白い仏舎利塔。留守番の日本人青年は、アメリカと日本でスライドショーを開いていると いうHさん。アーティストらしいデリケートで温かいもてなしをしてくれ た。2時間経つと純さんが来た。彼女の話によると、この土地 はモヒカン族のもので、彼らは離れた居留地に移住させられたが、祖先の骨がAlbanyの博物館にあったのを戻すよう交渉した。その願いが受け入れられ、伝統に沿っ た埋葬をこの寺の土地にするため、純さんに尋ねたところ「勿論ここは貴方がたの土地ですから」と、快く応 じ、そのセレモニーをした。丁度その時、アメリカ先住民のリーダーも訪れ、またセレモニーの最中偶然カト リックの尼さんも来て、インターフェースのセレモニーになったという。そのようにこの土地 では、不思議な出逢いが次々と起こっているという。

 その日も、近所の人が料理したパスタを届けてくれ、ニューヨーク在住の日本人カメラマンの料理したチキンカレーで 豊かな食事。ニューヨークでは自分で作ったサンドイッチとファーストフードだけだったからとても有難かっ た。そしてここの名物。鉄分を含んだ井戸水の五右衛門風呂!夜の星は真っ暗な森の上に輝いていた。北斗七 星がここでは真上にある。

(澤村)

ニューヨーク

 起きても時差ぼけに身体は動かない。でも今日は休 日。ゆっくり自立整体のエクササイズをする。明日午前11時、ウォー ク参加のためにニューヨーク在のコーディネイターが手配してくれたバスに乗る、予定はそれだけだ。ぐずぐ ずとうまいコーヒーにパンの朝飯、タバコ、そしてピチピチとしたヨーロッパからの若者が多いホステルだ歩 き出したら、ハドソン川に突き当たった。川沿いの公園は子連れの散歩者、緑のベルト、リス。恵まれた環境 だ。しかし何やら冷ややかな表情が多い。それから市内でも…とブロードウェイに向かって歩き始めた。都市 の路上にはさびし気な表情が多い。

 ニューヨークの栄光の日々は終わった。前市長ジュリアーノが犯罪を少なくしたというが、
9.11以来、景気は落ち、また新市長のお陰で少し上向きになったと、同室のアメリ カ人中年は言っていた。だが、すさまじい管理社会と家賃の高騰で、アーティストは近くの州に拡散し、文化 の味は失われたから彼は南アフリカに移住したそうだ。でも、そこは名だたる犯罪社会。ニューヨークに居た時にもブ ロンクスなどには決して近寄らなかったが、南アフリカでも同様に、ゲットーは避けて暮らしているという。彼 にもさ迷えるアメリカ人の運命的な憂愁が漂っている。

 空は灰色、相変わらず今日も肌寒い。ブロードウェイに行く道の途中には閉店中のものも見かける。東京の 中心街もそうだが、住人互いのコンタクトなく歩く人の表情にウンザリして途中で左折、
Central Parkに入る。歩行者用の舗装道がカーブを描き、両脇の木々にはリンゴの花みたい な白い花、ボタン桜みたいなピンクの花が満開だ。

 ようやくトイレがあったので用を足した。内側のカギは壊され、人はソソクサと用を済ませてサッと出る。人 目につかない所で互いに出逢うと、まず警戒しなければならないらしく、外の緑に戻っても、白けた気分は続いている。カッ プルや子連れが多い時刻のようだ。途中ふんだんにあるベンチで休み、緑と人を眺める。

 幼稚園児が集団で各々
1本のロープにつかまって来た。先生が遊び場を指すと一斉にその緑 地に向かって走った。それだけが明るい。

 時差ぼけのせいか、時間がアッという間に過ぎて、公園の反対側に抜けたのは午後
2時。その近くには、巨大なメトロポリタン博物館が、前面の階段一杯に観光客を乗せて待っ ていたかのようだったから、僕たちも入った。

 入場券
25ドル、シニア15ドルと表示され ていたが、一寸受付と会話をしたら、実際は払えるだけ払えば良いんです、とのこと。そこで僕は10ドルにして貰って入場。まず古代ギリシャ展から見始めた。ほとんどは寄付そ してメトロポリタン美術館がスポンサーとなって発掘した物だそうだが、正に膨大な人類の遺産が、歴史と地 域に分けて展示されている。スケッチをしている人、写真を撮る人も多いが、圧倒的なのは団体客である。今やニュー ヨーク経済のかなりを観光に依存している。ドル安のせいもあって、価が若いヨーロッパ人にとっても気楽 に来れる場となっている事情もある。僕達のホステルは、他のホステルより高く、1ベッド35ドル、中華料理のテイクアウトがラーメン2ドル25セント、バスが2ドル半。そしてこの博物館以外にもモダン・アート美術館など、かなりの過去の栄光がこの都市には散 りばめられている。

 メトロポリタン博物館では
2階の南インドとカンボジア・アンコール文明の彫刻が特に印象的 だった。そしてここの展示は、小物はガラスケース内だが、大物はごく近くまで近づけるほ ど、柵もなく、開放的になされている。勿論、見事に存在を消した黒背広の警備員が各所に立ち、客が触ろう とすると「Donユt touch」。ケイタイの電話が鳴ると「No Phone」の重い声が飛ぶ。客をハッとさせて指示に従わざるを得ない力がある。

 午後
4時過ぎに博物館を出た。向こうの方から大群衆がシュプレヒコール をしている声が聞こえた。その方向に歩くとプラカードが乱立、その先頭にマイクでは弁士が 次々とアジ演説をしていた。「ちゃんと契約を!」とか「健康保護を充実させろ!」とかの労働関係のデモ。ざっと2000人位が、セントラルパークを横切る車道を埋め、特にホットなのは、ハンドマ イクでゴスペルソングを歌う中年の黒人女性の一団だ。

(エッここ、コンゴ?)とまで思わせるその歌と踊りの迫力に、しばし釘付けとなった。デモ隊はあらゆる方 角から駆け足で集合する人で更にふくれあがった。ニューヨークでは南北戦争後の奴隷解放以前に、白人雇用 主が、長い年季奉公をした奴隷を自由の身にしてやり、そんな黒人のコミュニティが初期か らあり、近年黒人専用の共同墓地も発掘されたとのことをデモ隊の黒人より聞いた。メキシコ系も多くてスペ イン語が飛び交うデモ隊には、圧倒されっぱなしだった。確かに、この市の黒人は、自信を持っているように 見える。メキシコ人も後発ながら、陸続きに侵出した強さを持っている。

 帰りのバスの運転手はかなり年配の黒人だった。バス代
2ドル25セン トはコインで支払わなければならない。僕のコインは75セント足りなかったが、おうようにうなずき乗せてくれた。客 はほとんどが黒人かメキシコ人かアジア人かだ。たまの白人は身障気味の老人ばかり。とた んに、ニューヨークのハイソな建物の裏側を見た思いがした。

 渋滞ひどい夕方、ようやくバスを降りて、ホステルに向かう道は低所得者用の団地アパート群を抜く道だった
7.8階建てのアパートのれんが壁には、NYPDニュー ヨーク市警)の監視カメラ作動中の看板が例外なく貼られている。確かにその道には屈強な黒人の若者がたむ ろしていた。だが、顔見知りの通行人とジョークを交わす位で、明るい雰囲気である。僕も危険な思いはまった くしなかった。

 ニューヨークのマンハッタンは南北に走る主要な道から一歩横に外れると、住民同士が立ち話をしている光景が良く見 られる。黒人街だけではなく、中国人街、イタリア人街などもある。
40上の言語が話され、地域でもその言語が独立して使われているという。この人種のモザイ クをひとつひとつまとめるには、効率の良い管理社会しかあり得ないだろう。小さな外国がひとつの都市に隣 り合わせとなってつみこめられているのだ。

 そして、今や黒人の大統領を選んだ国だ。確かに
40年以上前のSF小説 「ブレードランナー」に黒人の警部、白人の刑事という配役あたりから、映画・テレビで黒人管理職、白人の 現場仕事師といった配役の組み合わせが目立ってきた。黒人はアメリカ先住民、白人に次ぐアメリカの古参民族であ る。それを正当に評価しなければ収まらない位、白人至上主義は権威を保てなくなったのだろう。人口からし て、白人はマイノリティになりつつある人口増加の先頭を切るのがメキシコ人なのか、スペイン 語がメトロ、バス路上でひんぱんに耳にすることで判る。

 たぶん、大陸横断鉄道の抗夫から出発した
19世紀からの中国人、そしてベトナム難民の多くを占めた中国系ベ トナム人も多い。そして韓国系。街のスナック屋台はアラブ、パキスタン、インド系のよ うだ。ヨーロッパ系の白人にはアングロサクソン、ゲルマン、ラテン、アイリッシュ、ジューイッシュ、スラ ブ系と色とりどりだ。その全ての民族と人間的に付き合える余裕があるのが黒人系のような印象を受ける。彼らには戻 るべき故郷はない。

 奴隷狩りをしたのは同じ黒人の他部族だったのだ。そうして白人に売られた
1,500万人ほど の黒人奴隷が、南北アメリカ、カリビア湾に送られた。これほどの人口が一気に民族移動をしたのは、人類史 上初めてであった。人類史のあけぼの期には27種類が居て、そ の内の7部族がアフリカを出、今日のユーラシアや北アフリカへと移住し、 世界の人種の元となった。だが、奴隷貿易はアフリカに居残った20部族からもアメリカへ強制移住させた。だから南北アメリカには、ユーラシア地中海中東 の民族とは違う要素が紛れている。ブルース、ジャズ、ヒップップ。こんな音感の世界も後から出された20部族の血によるものかも知れない。それがニューヨークで実感した人類史のマ ンダラであった。

 明日は北北東、午後
6時高速バスで3時間余のAlbanyに行く。ホステルに戻るとドーミトリーのベッドは大きく木製、与えられたシー ツもまっ白、部屋の空間も広いのにはホッとする。この巨大なホステルを建てたのは、メトロポリタン博物館 を建てたのと同じ建築家だという。今日は彼の作品を2つ体験したことに もなる。

 飛行機内の緊張と時差で不足していた睡眠を取り戻すかのように眠りに落ちた。

(澤村)