On April 10th, I got on an Amtrak train heading east. I got off at a beautifully restored train station in Utica and rejoined the Walk for a Nuclear Free Future that day.
It has been quite the adventure, rejoining the walk after leaving it in Rochester. The scenery had changed greatly. I was out of Western New York and had entered the Mohawk Valley. Later, we were to walk into the Hudson River valley, which is where we are now. Unlike the Buffalo to Rochester experience, which took me through familiar territory, I had come to a part of the state that I really did not know well.
But there has been one common thread that has linked Western New York with these other parts of the state, which is the rivers. I have always been drawn to water. I remember that,on Saint Patrick's Day, we walked along the shores of the Niagara River to Niagara Falls. We were amazed and intrigued by the enormous volume of water flowing over the falls. Rainbows formed above the falls. It was a stunning sight.
When I rejoined the walk, we were walking along the Mohawk River and the Erie Canal. We crossed and recrossed the river on those bridges that I truly don't like! One of the most wonderful experiences of the walk occurred outside of Fonda, when we stayed at the Mohawk Community with Alice and Tom Porter. We ate traditional corn soup and mush (very yummy) and learned quite a bit about the Mohawk culture.
I was sad to leave the Mohawk Community, where I felt at peace. We were surrounded by the beautiful hills and waters of Central New York. I could see horses and cows and I could walk through the woods to a cold stream. It was good.
I have to admit that one of the reasons that I chose to rejoin the walk after having been away for two and a half weeks was to see the Hudson River. I had seen the Hudson many times through the windows of a train and I very much wanted to see it within touching distance, much as I had the Mississippi River when I participated in the Witness Against War walk in 2008.
The river was beautiful but I have learned that it is full of sorrow, much as the Niagara River is full of sorrow. Radioactive waste has been found in the Niagara River, byproducts of the Manhattan Project of the 1940s. This radioactive waste has been found all over Western New York: in Lewiston, West Valley, Tonawanda. It has resulted in birth defects and all sorts of cancers. In the Hudson River, we were told, there is radioactive waste resulting from the Indian Point Nuclear Power Plant.
We walked to the western shore of the Hudson River and could see the Indian Point Nuclear Power Plant on the far shore. We all dropped to our knees, praying and crying. We cried for the river and for the children who would inherit this wounded earth. We cried for the victims of depleted uranium. Tears kept flowing for the damage that uranium mining does to the earth. Our tears fell for the harm that the heated water does to the fragile ecosystem of the Hudson River.
Water is life. That is probably why I am so attracted to it.
The walk is about to end. I will write more when I come home.
Bye bye for now.
alice
Wednesday, April 28, 2010
Monday, April 19, 2010
Sunday, April 18, 2010
Albany/フリースクール
6時起床。祈り。今日は土地人が増えてウォーカーは26人。街郊外の海軍原子力研究所へ行く。ここで、原子 力潜水艦の原子炉が研究され、訓練もされる。海軍はもう一つ、ハワイに同様の施設を持ち、計 2万7千人が双方で働いているという。その鉄柵に祈り鶴を下げている と、マッチョな私服、そしてサングラスに黒いユニホームの警備員が 4名駆けつけた。全員軽機関銃と腰に重いバッグつき。ウォークの現場コーディネイター、 73才の白人Jが対応する。この研究所には、200名ほどの優秀な科学者が勤務するというが、物々しい警備の外には、広大な敷 地にビルが点在しているだけだ。
20メートルほどの川に沿った道を歩く。遅れ気味の僕を、やはり遅れ 気味の太った Nが、大きなNuclear Free Futureの旗を肩に下げ、ずっとつきそってくれる。ただ二人で歩いている内に道を間 違ったのではないか、と不安となり、ケイタイを試したら、初めてアメリカで通話できた。 10キロメートルほど先で、旗をかかげて待っている者に出逢った。それまでは、林 の中の小城みたいな住宅ばかりで、日曜なのに人の影ひとつ見なかった。「どんな人が住人でいるのか」と同 行者に聞くと、「 Politician 」と答えた。彼らは一行の太鼓の音を聞き、窓の内側より旗の進 むのを見ているのだろうか。「ここらの人たちは、市内に住んで金貯めて、郊外にでかい家 を買い、その内子供がさびしいとか言うのでまた市内に移るのさ」と付け加えた。
ウォーカーの止まっていたのは、センスの良い中位のサイズの民家だった。太鼓の音を聞いた当家の女性 が、かつて純さんと会い、その後ピースパゴタにも行ったことのある人で、ピンときて家から出ると純さんに 再会。お茶に招いてくれたのだ。昨日コンピューターを借りた民家に次いで、一般家庭にま た入った。広く家具調度品は立派だ。
今朝教会を出る時に、入口に 20人ほどの貧しい人たちが、日曜朝のフリーミールを待っていた。黒 人と白人の老人が多かったが、皆どろ臭かったり、悲しそうだったりした。その差がどこに でもある。
そして、今日の行進に先住民はまったく消えている。そう言えば、昨夜彼らが「明日は、西の門から東の門に入る」と 言っていた。つまり、首都オルバニー近くは、白人地帯と見なされているのだろうか。モザイク状に、都市内 でも各人種が別れているように、地域でもそのように互いのテリトリーを意識しているのかも知れない。 まだ入国して 8日目だ。判らないことばかりだ。小さな出来事を結びつけて自分な りのアメリカ像を作るしかない。だから、意識的に質問もしておらず、相手が自然に言った ことを元として、この記事も書いている。
どこの市内も、郊外からの金持ちが戻る現象が起こっているらしく、住宅からして高級マンションか高級住 宅、もう一方は低所得者アパートか、古い互いの壁をくっつけた家。と、見事に分かれている。こんな近くで 互いの差を見ていたら、互いにつらいものがあるだろう。そのギャップを歩いて行く。正 面に議事堂らしき両肩のそびえるビルの建つ道の歩道を延々と行く内に、僕の歩みは限界にきた。サポート・カー がそこで待っていた。今日は 2.3キロは歩行距離を延ばしている。たぶん 12キロ位か。ずっと曇りっぱなしだったが、雨も降らず、風も弱かった。日曜日 らしく市内の人もゆったりとして、あいさつする若者も何人かいた。
ウォーカーの止まっていたのは、
今朝教会を出る時に、入口に
そして、今日の行進に先住民はまったく消えている。そう言えば、
どこの市内も、
ニューヨーク州の首都Albany。
フリースクールはより大きな部屋が
「ウェスト・ヴァリーのセネカ・
ハイドロンさん。「第
日本人しげるさん。「
最後にフリースクール責任者クリス。「
ここはフリースクールだから子供が多く、
世界中の国の軍事費の合計した額の半分を一国で使っている国アメ
そして、このフリースクールの経済基盤もユニークだ。
このフリースクールの生徒は現在約50人、
夕飯。日常的にこのような団体を収容しているらし く、食事にしても見事に菜食バイキング料理が出てくる。暖房も丁度良い温度。床の小さな穴から温 気が吹き上げる方式だ。マットの上で楽々と寝た。
(澤村)
Saturday, April 17, 2010
行進団の人々
教会の外に出た。肌寒い。ここは札幌より少し北に ある。あたりのアスファルトはまだずぶ濡れだった。夜、かなり降っている音がしていたのを思い出 した。例のごとく 6時に祈りの集会。そして、 JFK空港がアイスランド沖の火山噴火により閉鎖のニュース。新人が自己紹介する。中 にはフロリダから来た親子がいる。息子の一人がかつて参加していて、影響されたのだそうだ。まったく ウォークに参加している人は各々色々な関わりでやって来ている。 5人ほどの先住民は、一昨年の先住民権利ウォークに参加して目覚め、今回の核をテーマとし たウォークにも参加した。シックス・ネーションの西端セネカ族の土地、バッファローの南 48キロに核廃棄物処理場があり、地域の住民やそこで働く労働者に深刻な被害をもたらしている、と いう事実をアピールするためだ。
多数派は白人。コーディネイターの Jさんは73才。い つもケイタイで問い合わせを受け付け、また、ウォークのための宿舎、サポート・カーの手配等を純さんに協 力してやっている。勿論、毎日歩き通してもいる。元軍人、元警察官、ニューヨーク州の人。その日、通りか かった街の人が、一日だけ参加する例もある。フランス人 3名は若 く、ヨーロッパ、南アフリカ、オーストラリアのウォークにも参加している。日本の若い女性 2人が、こまめに料理をやり続けている。とても健康的な米、玄米に菜食が主だが、そ の街のボランティアが持ち込むパンやパスタやバター、チーズ等を組み合わせた豪勢な食事が毎回出てくる。昼 食はサンドイッチを屋外で。朝夕はバイキング・スタイル。勿論マイカップ・マイディッシュ・マイスプーン& フォーク。
Amsterdamの街を出るまで宿泊した教会の牧師が交通整理をしながら先導し た。道脇の住民が数人、これは何のウォークですか?と尋ねた。車道を歩いていてもクラクショ ンを鳴らしたり、手を振ったりして励ます運転手がいる。純さんによると、 30年前は「ブラブラせずに仕事をしろ!」と、怒鳴られることも多かったという。道に身をさらすこと で、時代の変化を感じとれるのだろう。毎年ウォークを続けている 70才代前半の年配者たちには、ゆるぎない存在がある。顔の厚い皮、地に降ろした身体。常 に落ち着いている。7~8キロメートル歩くと、小雨が降り始めた。風も強くなり、急激に冷え込んだ。この ウォークを 3月7日にバッファロー で始めた頃には、雪も降ったという。
今日僕は、 5月2日に民間団体が ニューヨークで開催するワークショップの申し込みを、苦手なコンピューターを通してやらなければならな い。現地のサポーターの車で、彼の自宅にて、彼に手伝って貰い申し込みをした。それから、土曜でも開い ているモールの郵便局で、原稿をいつもタイプ打ちして、ウェブに載せてくれる友人に送る。それがぶ厚かっ たので小包扱いとなり、用紙に内容等を書き込むこととなった。 9.11以来、あらゆる面で規制が厳しくなったということだ。郵便局にパスポート取 得できる、とある。それは以前カナダに免許証だけで行けたのが、 9.11以来不可能と なったからだ。モールを出た所で、ふと同行の彼がつぶやいた。「昨日ここで少女が空気銃で撃たれて、首に ケガしたということだ。犯人はまだ捕まっていない」。見れば、 SECURITYと書かれた車が止まっている。
多数派は白人。コーディネイターの
今日僕は、
ウォーク一行は既に23キロメートル歩いてSchenectady の街の教会に到着していた。この教会も広くまた中で迷った。夕 食前に街の平和運動家が 10人余集まり、共に祈りを捧げた。アフリカのザンビアで唯一布教 をしている 75才の森下上人が、平安時代には仏教が盛んで、刑務所に蜘蛛の巣が 張るほど犯罪が起こらず、死刑になった者は一人も居なかったとの話をした。ここの平 和運動家は、郊外にある原子力研究所に反対しているグループだという。皆知的なのは、州都 Albanyに近いからか。今日の出発点のAmsterdam のさびれ様とは違って、家も新しく立派なのが多い。
夕食は彼らも持ち込んだ食料も加わり、何を選んだら良いのか迷うほどだった。手作りのケーキまで!談笑 していると、ベトナム戦従軍した年配者がいた。当時は徴兵制でアメリカ人は自国を守るために戦うことが誇りとなって いるから、ほぼ皆が喜んで従軍したが、現場では酒を飲んだりする生活が続いたという。後になって、ベトナ ム戦の拡大したきっかけとなったトンキン湾事件(ベトナムの魚雷艇がアメリカ軍艦を攻撃した)は、作られた情報であ るのが判ったのだ。そして、退役してもその後の保障は余りにも少ないとのことだ。それに反して警察への保 障は充実しているという。
今日はウォーク参加以来、初めてのシャワーをとった。近くの YMCA まで車に乗せて貰うと、そこも迷う位大きなビルで、シャワーは 20人ほどが一度に浴びれるように、一本の柱に4個ずつ 水口のついているタイプだった。教会の一部屋の床に泊まる。寝る前に数人がお灸をすえて、身体を整えた。今回の ウォークは計 1.120 キロメートル。既に半分以上を歩いた人たちの中には、足を引き ずっている人も何人かいる。
夕食は彼らも持ち込んだ食料も加わり、
今日はウォーク参加以来、初めてのシャワーをとった。近くの
(澤村)
Friday, April 16, 2010
日本山妙法寺法尼(純さん)の話
休憩時間に純さんが、タンポポや山菜をつまみ、数人が同じようにした。「買うだけではなくとも、食物は 得られますよ…という意味もあってこうしているのです」とのこと。後にそのスープとあえたのを食べたが、土地とのつ ながりを感じ、また整腸効果もあった。時差ぼけがそれで脱けた。
その後、純さんがアメリカに来て、先住民運動と関わったいきさつを話した。「 70年代の前半にスリランカの仏舎利塔を作っていた時、冗談でアメリカ在住の日本山妙法寺 の僧 Mにアメリカに行きたいと言ったところ、その創始者藤井日達師匠 が、「アメリカ先住民が先住民法によって益々窮地に追いやられないため、アメリカ大陸横 断のロンゲスト・ウォークをやるとのこと。貴女はそれについて行って太鼓を叩き、励ましてやって下さい」 と航空券を渡されたのがきっかけとなった。
1982年、第二次米ソ軍縮会議に向けても、ウォーク。途中で先住民のお ばあさんに会い、弱っている様子だったので指圧をしてやった。シックス・ネイション の長老で先住民のリーダー、デニス・バンクスが、ウンデッド・ニーの教会を占拠して、それまでアメリカ政 府が先住民と契約した約束を果たすよう要求し、連邦政府軍と対決した折の罪を問われ、当時先住民権利に理 解のあったカリフォルニア州知事ブラウンにより、その州内だけは自由を保障されていたの だが、知事が変わり捕まりそうになった時、次の避難所に選んだのが、この東北部のオノンタガ族、しかも彼 が泊まった家は、私が指圧をしたおばあさんの家だったのです。実はデニスが危ないと聞いた時に、私は州議会 前で断食アピールをしたいとデニスに許可を求めに行ったところ「もう遅すぎる。一緒に次の避難場所に行き ましょう」とのことで、デニスの家族とそのおばあさんの家に泊まることとなりました。彼女は実にそれから 3年間の間、自分の寝室をデニスの家族に渡し、自分は居間の長いすに寝たのです。私はそ の下の床に寝ました。その間に私は先住民権利のため、オノンタガとニューヨーク州の首都オルバニーの間をひとりで ウォークし続けました。 1週間歩き、1週間議会の前で断 食、そして車でオノンタガに戻り、またオルバニーに歩く事を繰り返しました。その間に、長野県大鹿村に居 た仏像彫り師がニューヨーク市で先住民権利運動の中心人物の牧師ハンクさんを紹介してくれ、彼が先 住民運動のシンボルを建てようと仏舎利塔について私がオルバニーの議会前で断食中に尋ねました。
その後、純さんがアメリカに来て、
丁度、オーストリアで建てている所だったので、そう伝えると、
なんという偶然とそれを結びつける努力のたまものだろう。
今日、僕は10キロメートルほどで、遅れすぎ、サポート・
出国前に藤本監督の撮ったアメリカの退役軍人の戦場体験と、
そのように、
また、カリフォルニア州ではスリー
アムステルダムの街に夕方到着。かっては、
まだ機能している教会大ホールの床泊まり。ゆったりと休んだ。
(澤村)
AD(アフリカ系アメリカ人)の話
そして平和行進は、今日例外的に、朝遅く出発した。次の宿泊地アムステルダム市の教会が午後 5時からしか開かないので、余裕を持ってゆっくりと歩いた。僕もついて行けるので、有難 いスピード。それでも徐々に遅れても、バッファローの通信社に勤めていた女性がしんがりの旗を持ちつきそってくれ る。本日の予定は短く、 16キロほど。途中小雨ながら、ほとんどの人は雨具も使わず歩き続 ける。
途中、昨日 Fondaまで車で送ってくれた中年の黒人と話しながら歩いた。黒人は平和 運動に参加しないのに、どうして貴方は参加したのですか?と尋ねると
「それは、奴隷制度があったという事実にまだ国が正面から向き合っていないからだ。この国の白と黒という 分離は、ほとんど永久に解決できないように思える。オバマは奴隷の子孫ではなく、アフリカ人と白人の混血 だ。私の妻もアフリカ人だが、我々は互いに大きく異なっている」と答えた。
途中、昨日
「それは、
(澤村)
トム・ポーター(モホーク族)の話
早朝起床。外に出たら曇り空に冷たい風。6時祈り。朝食後、20人のウォーカー皆でこのモホーク族コミュニティ責任者トムさん を囲み、話を聞く。この土地は彼のひいおばあさんの物であった。彼らが強制的に居留地 に移住させられた時、我々は必ず戻る、と言った通りに戻った。以下、トムの話。
「我々は西欧人の食生活を取り入れて以来、それが好きになりましたが、糖尿病にかかる者が多くなり、私自 身もそうですし、妻も今、視力の低下に悩むまでとなりました。しかし、伝統的なトウモロコシをベースとした食事に転 換したところ、かなり血糖値が低くなり、妻も手術を受けられるレベルとなりました。
私が子供の頃は、居留区には電気などの文明は届いておらず、夜寝る時はマキを節約するために、私はおば あさんに寄り添って暖をとっていました。 4才となった時のことです。朝目覚めた時に陽が窓から入り、おば あさんが「これが、創造主の指であり、腕なんだよ。創造主はこうして私たちや納屋の牛 や、木や草を、子供を愛するように包み込むんだよ。そして母なる大地を。お前はただ<ニヤンウェ>ありが とうと言うのです。私達を生かしてくれる偉大な慈悲と愛に。我々は教会や王様や女王は要らない、と。
先住民は、この世界一豊かな国で、真実と幻想を見分けられなくなってしまいました。老いた者は疲れ果 て、若者はルーツに戻ることを忘れてしまいました。しかし、全ての教えの元は、殺すなということであり、我々は 100 年、200年かかろうと本来の教えに戻ろうとしています。今朝貴方がたが 祈っている姿に、私はただ泣いたり見せつけたりするより大切なものを感じました。コミュ ニティの女性達は、昨夜、偉大なスピリットが降りてきたと言い、子供たちも明るい目覚めをしました。
「我々は西欧人の食生活を取り入れて以来、
私が子供の頃は、居留区には電気などの文明は届いておらず、
先住民は、この世界一豊かな国で、
そして貴方がたの中に、
ある朝、
今私は、敵のために働いています。
また、毎年
今、私達はこのあたりに多く住む、
(澤村)
Thursday, April 15, 2010
行進団合流/Fondaモホーク・コミュニティ
Fondaのモ ホーク・コミュニティで一行はRestDayだという。朝からスカッと晴れた丘を歩いた。固いひ とかかえほどの石があちこちにある。純さんによると、だからここは農地として開拓されなかったと いう。そして所々に石をサークル状に積み上げているのは、かってこの地に住んでいたモヒカン族のものでは ないか、と言う。
午後 2時頃、Fondaへと平和 運動には関わらない黒人としては例外 ADの車で行く。途中Albany、ニューヨーク州の州都を抜ける。古い英国風のビルと現代風のビルが混在す る人口 5万人程のこじんまりとした都市はハドソン川沿いにあり、彼が街と 川の間にある川岸の小公園を案内してくれた。街から歩いて川岸に来るのは、ハイウェ イの上にかかっている歩道橋を登り降りするという。まず車を優先してアメリカの街は作られる、つまり遠距 離移動機能を重視するのは、オーストラリアもそうだった。移民社会とはそういうものなのかも知れない。
この街で働く人の中には南部から移住した例も多いという。重厚な作りの州庁舎の脇の緑地に団地群があり、そ こは低所得者が多く犯罪率も高いという。立法府と犯罪地帯、両極のコントラストが並んでいる。
鉄道に沿った 3車線道路の脇に、モホークのコミュニティ・ハウスがあった。中に 入ると迷うように大きい。カナダから来た旧友と再会。別れていた間のよもやま話に花が咲 いた。彼は定年退職後にミャンマーの寺で 2年間修行。出家して、今は四国で瞑想センターを開いた。
モホークの女性達とインディアンのとうもろこし粉の料理と、ウォーカーが歩いている間につまんだ山菜の夕食。よ うやくウォーカーと再会、夕食後サークルで自己紹介をした後に、重厚な造りの 2階部屋の床にホッとしたらすぐ眠った。
午後
この街で働く人の中には南部から移住した例も多いという。
鉄道に沿った
モホークの女性達とインディアンのとうもろこし粉の料理と、
(澤村)
Wednesday, April 14, 2010
マンハッタンを離れる・Graftonへ
昨夜は斜め上のベッドのアメリカ人の若者がケイタ イの音高く鳴らし、一寸注意したがお構いなしで、早朝にもまたけたたましいのに起こされ、寝起き が悪い。そこで散歩に出た。裏の低所得者用団地の広い中庭に大きな鉄のベンチがあった。そこで朝陽を浴び る。緑が息づいている。
団地の出口から出勤する若い黒人の男女が急ぎ足で出ては去る。杖をついた黒人の老人が向こうのベンチに座りゆっく りと、紙コップのコーヒーを飲み始めた。そこで僕もやはり紙コップを手にした通行人にコーヒー店を聞く。「裏 の大通り」と男が指さす。もう一人が「角の向こう側」と付け加える。
昨日と同じに、行き先はあっという間に判る。
アラブ系らしい雑貨屋でコーヒーの大を買い、ベンチに戻りゆっくりと飲み干したら、出発時間の午前 9時に近くなった。ニューヨークでは何事もスムースに進行するためか、時間のたつのがす ごく早い。
ホステルをチェックアウトするのに時間がかかった。 650名収容できる規模だから、ラッシュアワーには列に並 ばなければならない。
ニューヨーク州の州都オルバニーに行くバスは、マンハッタン島の市街地ペンシルヴァニア駅前から出る。黒 めがねの黒人女性の運転するバスも混んでいた。そして老人と身障者、特に車椅子の黒人などの乗り降りに時間がかかっ た。
客どうしの口げんかも起こった。そのひとつひとつをこの黒人女性運転手はテキパキとさばき、命令する。 「私はここで皆にサービスするためにいる」。ケンカのトラブルが発生した時に彼女の言った言葉が印象に残った。
ダウンタウン中心街で下車。活気ある人の流れの中で声を張り上げていたキリスト教の宣教師らしい 30がらみの男に、メガバスのありかを聞く。また時が素早く経って、もう集合時 間の 11時に近い。宣教師に渡されたキリスト教のビラを片手に彼の指さし た方向へ行くと、角から摩天楼エンパイアーステートビルが見えた。あたりのビルもそ そり立っているから、僕が少年時代に見たように抜きん出た存在ではない。
2階建てのメガバスはほとんどの長距離列車の発車するペンシルヴァニア駅の脇 に停車中だった。列となった客はまもなく乗車した。そしてあっという間に発車してあっという間に緑広がる郊外に出た。 ニューヨークの空気が良いのは、片側は海、片側は広大な林があるからだと納得できた。 3車線道路脇にはレストラン風の家が主だ。そのいずれもが星条旗をひるがえしている。
団地の出口から出勤する若い黒人の男女が急ぎ足で出ては去る。
昨日と同じに、行き先はあっという間に判る。
アラブ系らしい雑貨屋でコーヒーの大を買い、
ホステルをチェックアウトするのに時間がかかった。
ニューヨーク州の州都オルバニーに行くバスは、
客どうしの口げんかも起こった。
ダウンタウン中心街で下車。
道はハドソン渓谷に沿って北上。なだらかな丘が続く。
その寺は林に囲まれた丘にあった。
その日も、近所の人が料理したパスタを届けてくれ、
(澤村)
ニューヨーク
起きても時差ぼけに身体は動かない。でも今日は休 日。ゆっくり自立整体のエクササイズをする。明日午前 11時、ウォー ク参加のためにニューヨーク在のコーディネイターが手配してくれたバスに乗る、予定はそれだけだ。ぐずぐ ずとうまいコーヒーにパンの朝飯、タバコ、そしてピチピチとしたヨーロッパからの若者が多いホステルだ。歩 き出したら、ハドソン川に突き当たった。川沿いの公園は子連れの散歩者、緑のベルト、リス。恵まれた環境 だ。しかし何やら冷ややかな表情が多い。それから市内でも…とブロードウェイに向かって歩き始めた。都市 の路上にはさびし気な表情が多い。
ニューヨークの栄光の日々は終わった。
空は灰色、相変わらず今日も肌寒い。
ようやくトイレがあったので用を足した。内側のカギは壊され、
幼稚園児が集団で各々
時差ぼけのせいか、時間がアッという間に過ぎて、
入場券
メトロポリタン博物館では
午後
(エッここ、コンゴ?)とまで思わせるその歌と踊りの迫力に、
帰りのバスの運転手はかなり年配の黒人だった。バス代
渋滞ひどい夕方、ようやくバスを降りて、
ニューヨークのマンハッタンは南北に走る主要な道から一歩横に外
そして、今や黒人の大統領を選んだ国だ。確かに
たぶん、大陸横断鉄道の抗夫から出発した
奴隷狩りをしたのは同じ黒人の他部族だったのだ。
明日は北北東、午後
飛行機内の緊張と時差で不足していた睡眠を取り戻すかのように眠
(澤村)
Tuesday, April 13, 2010
Monday, April 12, 2010
NY到着
成田出発が午後2時でソウル経由ニューヨーク着午後8時半。だが実際はこの約倍の 13時間を飛行機内で過ごしたこととなる。太陽の昇る方向へと時の 流れを逆流した。光が風としたらかなり風あたりの強い中を飛んだこととなる。成田、そ してトランジットしただけのソウルでは、念入りに手荷物と身体をチェックされたが、ニューヨーク JFK空港では、「貴方アメリカ初めてですね。ウェルカム」と入管の係官に歓迎さ れた。指紋と顔写真は撮られたけれど、その東洋系が少し混じっている若い係官のお陰で、(やはり現地に来 なければ、土地人のことは判らない)と、これまでアメリカ人に持っていた自己顕示欲やらの印象を改めること から入国したのだった。
JFK国際空港のスタッフは黒人が圧倒的に多かった。入国審査に並ぶ客 を支持して窓口に仕分けるのは全員がエネルギッシュな黒人。大柄な肉体と早い英語。見 事に人群をズラッと並んだ窓口に振り分ける。だから渋滞せずに人は次々と国境のゲートを通り抜けていく。通 関も黒人ばかりだ。あっけなく外に出てから、 600人以上を収容 できるというユースホステルに電話した。図書館で読んだガイドブック「ロンリープラネット」にあったのを 書き留めておいたのだ。ひとつ目の公衆電話は機能しておらず、コインも戻らなかった。
同行の Mが「お布施したんでしょう」とのコメント。隣の電話はクールな受 付の女性が出て、「リザベーションすることなしにただここに来なさい」との簡単なるア ンサー。そこで、空港から市内のコロンビア・サークルまでの空港特急に乗ることとした。
午後 9時半頃なのにプラットホームに乗客は少ない。切符の買い方が判ら なかったが、そこに立っていた黒人の係員が紙幣を受け取るとコインに転換、そして切 符を買うボタンを押してくれ、ついでに無料にニューヨーク列車マップもくれた。
「 Have a good trip!」との明るい彼の声に送られて乗車。 列車はまず7.8個のターミナルを順ぐりに廻る。空港も大きい、列車も大きい。空 港を抜けると、疲れ果てたストリート・ピープル国の黒人が数人乗り込み、すぐ眠り込ん だ。ブルックリンには貧民層が多いという現実、犯罪も多発するというガイドブックの記事を思い出したが、皆 が互いに知らん顔をしており、パソコンを使う者からイアホンで音楽を聴いて身体を動かす者など、勝手にやって いる。メキシコ系も多い。スペイン語が飛び交っている。マンハッタン島に近づくと、ドッとコロンビア・ サークルにて乗り換えた Metro 内には若い女性群がケラケラ笑いながら大声スペイン語でおしゃべ り中。切れの良い発音だ。「 love Ner York」の赤いロゴとハートマーク のTシャツ姿。スペインから来たという。ヨーロッパ人はアメリカに来ると陽気にな るのだろうか。 103 rd Streetで下車。狭い出口、狭い回転ド アー。その先にエスカレーターもない。今回は国連の核不拡散条約 NPTの改定に向けたウォーク参加とその後に南部西部のキャンピングを旅するつも りだから、荷が多い。それを老人用手押し車で運んでいる。ようやく階段を上った地表には、クラシックな煉 瓦壁のビルが並んでた。 1ブロック先の角に溜まる黒人にユースホステルの場所を聞くと、 「向こうの側の巨大なクラシック・ビルがそれ」と指した。誰もが行く先を瞬間にして示す 都市だ。ホステルの受付も見事に効率的にさばく。 2階(日本式には 3階)の10ベッド2段ベッドの下段。ひ とりだけ年配のアメリカ人が熟睡中。それから角のスーパーでライ麦パン、バナナ、ヨーグルトを買い、ロッカー用のシ リンダー型のカギも受付で買う。このカギ、右へ 3回左へ2回そして右へ1回ナンバーを廻して合わす金庫式。 5ドル。有り難いことに、ホステル前の庭にはスタンド型の大きな灰皿を置いてある。 Mがビールを買って無事の入国を乾杯。ささやかな夕食。ニューヨークは札幌と同じ北にあ る。肌寒い。シャワーの湯が出なかったが思い切って浴びる。飛行機の 13時間がぶっ飛んで、ただ眠った。
同行の
午後
「
(澤村)
Utube of March 6th Opening Ceremony in Steamburg New York
http://www.youtube.com/watch?v=I9BukYO5X3Y&feature=player_embedded#
Thursday, April 1, 2010
Ithaca and beyond
Walking out of Ithaca to Dryden today was a sight I didn't think could happen on this winter walk. It was 72 degrees and we were in T-shirts. Many of our wonderful supporters and organizers walked with us and it was the largest group we had since the 21 Seneca students walked with us back in Cattaraugus territory.
Over the past 3 days, a local peace and justice videographer shot film of the programs we participated in and also along the walks.
See it at: TCAW.BLIP.TV
http://sjc.unitarian.ithaca.ny.us/?p=89
Over the past 3 days, a local peace and justice videographer shot film of the programs we participated in and also along the walks.
See it at: TCAW.BLIP.TV
http://sjc.unitarian.ithaca.ny.us/?p=89
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